『やろう』と『やった』の間の深い川

『やろう』と『やった』にの間には深くて長い川が流れている。でも世の中の人から見れば、やってもいないのに努力すればできる、頑張ればできると思っている人もいる。ある面では事実かもしれないが、多面的に見るとそうでもないことは多々ある。

単純に見えるものほど、それを作り上げるまでに無数の試行錯誤があって、無駄をそぎ落としてきたものかもしれない。その時点で、先行されたものをなぞるだけでは表面的にしかわからない。そこにたどり着くまでの理屈というか、積み上がった経験というのは作っているその人や、同じような苦労をしている同業者にしかわからないことだってあるのだ。たとえ、それがスケジュール管理やここぞという判断力、小手先の技術であろうとも。

自分はほかの人から見ると、創作ガチ勢よりに見えるらしい。どっちかというとこだわりはあるけど、ゆるく楽しむエンジョイ勢よりだと思ったんだけど。客観的に見るとそうではないらしい。センスや才能、筆力といった、もともとスキルが高い人に比べたら、魅せるアドバンテージが低いから、コツコツこなすしかなかった結果今があると思っているんだけど。だって本当に能力ある人は化け物みたいに飛べないようなハードルを一発で飛び越えていくわけで。うちのサークルだって今の状態になるのでさえ七年かかっているわけだしさ。それでも、ショボいですよ。マジで。

ただ、『やろうと思った人』と『やった人』は信用が多少ちがいます。とはいっても、信用なんて一日で崩れちゃったり、余計な責任まで付きまとって面倒臭いことこの上ないものでもあるんだけど。なかなか積み上がるものでもない。自分だって社会的信用レベルで見たら底辺ですし……でも、自分自身で『何かをやった/やれた』ってのは尊いものだと思います。