それでもやっぱり本が好き (①ペーパーバック)

地元の本屋行くと人はいないは棚はスカスカ、どこにでもある有名作家の本の上澄みばかりで欲しい本は無いわで、ぶっちゃけ地方の新刊書店なんかより、偏りあれどブックオフのほうが種類あるよね……ってのが現状なわけで本読む人間から見ると悲しくはなるよね。思うところは色々あるけど。それでもやっぱり、本屋があればふらりと足を運んでしまうのだから、自分は根っからの本好きである。
 さて、ナンバリングをしたこともあり、数回に分けて、本のことについて語ろうと思う。語るったって大したものではない。出版論とか、本とはどうあるべきかなんて小難しいことは語るつもりはない。ふんわりと本っていいよね的なことを語るだけである。今回は洋書のペーパーバックについて語りたいと思う。知らない人向けに説明すると、ペーパーバックというのは簡単にいうと、カバーの付いていない本で、質のあまり良くない紙(学術書など例外あり)に印刷された簡易製本の本の事。日本で言うところのコンビニコミックの装丁を想像してもらえればいい。

話は遡ること2004年(もう15年前だ!)高校二年の頃である。友人と一緒に某泣きゲー原作のオタクアニメを観るために池袋まで出て(そのころはまだシネマコンプレックス的な劇場が一般的ではなく、埼玉県民である自分がオタク向けアニメ映画を観るには東京の映画館へ行く必要があった)その帰りに今は無き新栄堂書店池袋本店に寄ったことが事の始まりだった。
 村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のトレード・ペーパーバックを洋書売り場で見たのが最初だった。当時は洋書のことなど何も知らず、知識もなかった。初めての印象は「軽っ!」という印象と、本文がわら半紙のような更紙で、本ってこんなカジュアルでいいんだというポジティブな衝撃だった。他にもダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』やらジョン・グリシャム『最後の陪審員』の米国版マス・マーケット・ペーパーバックもあった気がする。英米のペーパーバックのチープでタイトルのタイポグラフィがケバケバしくドーンとなっているようなセンスが刺激的だった。ラノベならまだしも当時の一般書籍なんて抽象的でアーティスティックだったや新書などのフォーマットが決まっていたものばかりだったんで、すごく色鮮やかだったり、クールに見えたのだと思う。
 特に村上春樹の英語版はモノトーンに、赤の差し色のデザインやロゴのカリグラフィーとタイポグラフィーで統一されててすごくオシャレに感じた(図1)。しばらく前に英国版のカバーは変わってしまったが自分はやっぱりこのカバーがしっくり来る。とはいえ社会人になってお金の自由が利く頃にはカバーが変わってしまったので集めるに苦労した。


(図1 村上春樹の英国版ペーパーバックとハードカバー2000年代中盤から後半にかけて)

自分でも同人誌を作るようになってから、この大らかな本の考え方はそれなりに自分の創作の血肉になってくれたように思う。本文用紙の選び方、レイアウトの方法、本文組みなどに影響を受けた。同人活動を始めるにあたって、単純に文章を書くだけでなくでデザインもすることがPC上で簡単になったので、野良DTPなりに大いに参考にした部分が多い。
 どうしても、文庫本や文字モノの日本の書籍などはDTPに完全移行する前ということもあり、フォーマットが決まっていたので、洋書のような、作品によって、書体やページインテリア・レイアウトがデザイナーによって個別にレイアウトされるというのにも影響を受けた部分だ。なにより、同人誌の並製本スタイルがほぼペーパーバックのスタイルに応用可能だったということもある。


(図2 拙作の同人誌 その1)

(図3 筆者が参加したり、デザインした同人誌アンソロジー


(図4 拙作の同人誌より 文字組み例 ドロップキャップや見出し等のレイアウトは洋書のデザインを参考にした)

2000年代中盤から2010年代前半は個人的にペーパーバックデザインの当たり年、つまり自分の好みにあったデザインが多く出たのだ。英国版のレイモンド・チャンドラーの『フィリップ・マーロウ』シリーズ、ビビッドカラーにタイトルの意味の漢字を配置した吉本ばななの英国版ペーパーバック、米国版の『マルティン・ベック』シリーズ、コミックだと『ウォッチメン』やチップ・キッドがデザインした『シン・シティ』や『バットマン: ダークナイト・リターンズ』版が変わって見かけないのもあれば、まだ普通に手に入るものもあるが、すごい刺激を受けたのは確かだ。

(図5 英国版レイモンド・チャンドラーの旧版ペーパーバック 最近になってモノクロ写真に黄色地のものに変わってしまい在庫切れになる前に急いで買い集めた)

(図6 吉本ばななの英国版ペーパーバック キッチンの表紙は既に新しいものに変わってしまった!)

こういうのを見ていると、本というのはいい作品を更に複合的な要素で魅力的に見せる事かもしれないなと思うのである。ペーパーバックだから強度なんか無いし真面目に読んだら背割れして何度か読み返すとボロボロである。でも、このスタイルはサラリと読むのには向いている(とはいえ、自分が英語で読み切ったのは、村上春樹Alfred Birnbaum訳のHard-Boiled Wonderland and the End of the Worldくらいなのだが……)。
 でも、個人的にペーパーバックのチープなスタイルというのは気に入っている。気に入った作品は、ハードカバーで買い直しておく(ペーパーバックが出る頃には、ハードカバー版絶版という事態もあるけど)という事もあっていいと思う。
 大半の本が、一、二度読んでおしまいだったりするし。そういう意味でもペーパーバックのあり方というのは好きなのだ。

日本の安い文庫本は、質が良すぎるというか作られた発想が真逆で、読み捨てというよりも日本の小さな家の中に置いておくのに適した形だし、文庫化されることが永く読まれる名作の形、みたいな印象もあるのでそれはそれでいいんだけど。カジュアルないわゆる『読み捨て』に近いアプローチの本ではないよなあ。ってのが自分の中にある。
 それが良いか悪いかは置いといて、読書って、もっとカジュアルに自然にやるもんじゃないの? というのが持論である。だからといって馬鹿に迎合しろと言うつもりも毛頭ない。どちらかというと、必要なのはいろいろ娯楽がある中で、どうやって日常の中に読書を浸透させるかというライフスタイルの問題だし、濃くて内容のある本をいかに手に取りやすい形に持っていくかというようなことが重要だと思っている。個人的には洋書のペーパーバックのような本のあり方というのは、本のあり方としていいな、と思うのだ。隣の芝は青く見えるだけかもしれないが。