僕はたいした理由もなく君の手を握る 第八章
その日は空の様子だけ見れば、何の変哲もない穏やかな一日だっただろう。日々涼しくなってきてはいるものの、陽気はまだ温かい。
戒厳令(かいげんれい)はアストラーニェ一帯に通知され始め、悪いニュースがポツポツ新聞紙面を賑わせはじめていたが、自分の住んでいる場所が戦場になるなんて思ってもいなかったし、非日常的な別世界の出来事のように感じていた。
俺が住んでいる北東部の区画でも小競り合いはあったが、組織抗争レベルで戦闘と言うほどではなかった。
ふと、こすれるような妙な音に気付いて空を見上げると空に一筋の線が走っっていた。何かが高速で飛んでいる。
突然、道に亀裂が走った。
沈黙
間を置いてから、圧縮された空気が通り抜けた。
堰(せき)を切ったように、轟音が(ごうおん)湧き起こる。
騒音の中で、誰かの「逃げろ!」という叫び声が耳に入ってきた。
その叫び声のすぐ後で連続する爆撃音。
マジカルステッキに跨った魔法少女が大通りを通り抜けていった、それを追いかける数名の魔法少女。一瞬で市街地は戦場へ様変わりしていた。
砂埃(すなぼこり)が舞い上がる。何も見えない。
建物の陰に隠れ、コートの襟(えり)を立て戦闘が治まるのを待った。
―――
その後、戦闘は収まり、どうにか日も傾き始めたころに自分の家に戻ることが出来た。ドアを開けると、妙な胸騒ぎがした。中に入ると部屋が荒らされた形跡があった。見たところまだそんなに時間はたってないようだ。息を殺してゆっくりと進む。
物音がする。奥の方からだ。コスチュームとステッキを持った少女が、本棚の本を一冊一冊、虱潰(しらみつぶ)しのようにパラパラとめくっては床に放り投げている。
俺は気づかれないように物陰に隠れ「誰だ!」と声を張った。
「やあ、初めまして。カルナさん。そんなに警戒しないでくれ。悪いようにはしない。僕はただ、話を聞きたいんだ。君が何をしているのかをね」
淡々とした話し方だった。どこか少年っぽい話し方で、いかんともしがたい冷酷な感じがした。
俺は無抵抗の振りをして、あきらめにも似た笑顔を見せながら、普段からコートのポケットに潜ませていつ呪符をだし、封印記号を破った。一言、「答えはこうだ」と言って。
閃光。
少女は息絶えていた。
「悪いな、勝手に人さまのモノを漁るデリカシーのない女は嫌いなんだ」そういうと、安心したせいか、思いっきり息を吐いた。
俺は、何かわかるかもしれないと思い、少女の身体をくまなく調べた。死体はまだ温かいが、少しずつ体温が無くなってきているのがわかる。マジカルステッキの個人情報は特段めずらしいものではなかった。
そのまま何するでもなく少女の亡骸をじっと見つめていた。感じたのは、人を殺してしまった罪悪感ではなく、死体に対する嫌悪感だった。
目の前の死体をどうすべきか判らなかった。
放っておいたら、数日以内に異臭を発してしまうだろう。外に捨てるわけにもいかない。マジカルステッキ自体は破壊されていないので、誰かしらがもしかしたら死体を回収に来るだろう。
どっちにしても長居は出来ない。それに死体を愛でて楽しむ趣味もない。俺はそそくさと荷物をまとめ、ここから離れる準備をした。
ここにいても、命が危ないだけだ。
いろいろ集めた魔術資料が惜しかったが、『形あるものいつかは朽ち果てる』という、どこかで聞いた言葉を思い出しながら、本当に大切なものを少し選んであとは置いていく。
どうせ死んだら、頭の中身だってきっと、あの世にだって持っていけない。余計なことを考えるのはやめにした。大きな戦闘は起こっていない。少し休んで様子を見ながら街から抜け出すことにした。
―――
外は戦闘のせいで、建物の外壁にはたくさんの穴が開き。至る所で煙が待っていた。
焦げ臭い匂いと、排泄物に強烈な周期物を混ぜたような、何とも形容しがたい腐敗臭。
至る所で亡骸(なきがら)が放置されたままなのだろう。こんな状況じゃ死者に敬意を払う訳にもいかない。
ほんの数日前まで、生活感の溢(あふ)れていた街も今では、息を殺したかのようにひっそりしている。
隠れられるように建物や物陰のそばを歩きながら、郊外へ抜ける道を歩く。いくら非戦闘員だからって、追いつめられた魔法少女から見れば、敵にしか見えない。ここ数日の戦闘で彼女たちの精神がおかしくなっていれば、そのリスクはさらに上がる。
こんな時に常識は通用しない。
いつも通っている道を歩くだけで心拍数が上がる。たまったもんじゃない。目立たないようにこそこそ歩く方が悪目立ちするのは頭の中ではわかっていても実際は到底無理だ。
全方位に意識を集中させながら、なるべく早くこの街から離れようと歩いた。
空に二つの筋がみえた。
ほんの数ブロック先で爆発が起こった。衝撃波がかすった建物はえぐれている。
建物に残っていた住民も叫び声をあげて着の身着のまま、走り出す。これ以上崩れることはほぼないくらい崩れた建物の近くでうずくまる。
待った。ただひたすら何もしないでじっとして、戦闘が収まるのを長い時間。
何度も繰り返される破裂音。舞い上がる埃のせいで、口の中は粉っぽかったし鼻の穴は乾いたようななんとも言えない不快感が残っていた。
―――
どれくらい経ったのだろう、周囲が落ち着いたのを確認したときには時間の感覚が無くなっていた。
街の様相は、更に酷くなっていた。
瓦礫(がれき)の中で、何かが動いた。
瓦礫の塊に近づき耳を近づける。何も聞こえない。俺は建物の外壁やら木片やら、様々な瓦礫を動かした。しばらくすると、人間の姿が見えた。建物の下敷きになっているらしく、動けないようだ。
「大丈夫か!」俺は二人に呼びかける。
反応はない。
俺は急いで人影に覆(おお)いかぶさっている瓦礫をどかせるだけどかし、取り除いた。
そこには女の子とそれを抱きしめている男性がうずくまっていた。
男の方は身体は温かいが、顔からすでに血の気が失せ、すでに息は無かった。全身でこの子を守っているうちに力尽きたようだ。
女の子の方はまだ息があった。意識もあるらしく、俺の問いかけに頷(うなづ)いた。俺は来ていたコートを少女にかけた。ただ、彼女の方も傷だらけでかなり出血しているようで、かなり具合がわるそうだ。
この子の父親が守った命だ、無駄には出来ない。
「大丈夫か?」
少女はこくんと頷いた。
「よかった。ひとまずここから離れよう」
俺は少女を胸に抱きかかえるようにして、その場を離れた。
行先(いきさき)は考えていなかったが、今の状態だと遠くに逃げるわけにもいかない。距離的にもミハイルの小汚い事務所に身を寄せるのが安全だろう。
今は何よりも、この子を助ける事が先決(せんけつ)だ。それ以上の事は頭に浮かばなかった。