僕はたいした理由もなく君の手を握る 第九章
私たちは長い時間、通信施設の中のデスクトップ・タイプライターを使い、死亡認定者の整理や死亡通知書に定型文を繰り返し打っていた。
そこには感情も、思いやりも哀悼(あいとう)の念も存在しない。事実があるのみだ。結局、私が感情を揺さぶられるのは、肉親、兄弟姉妹、身近な人物くらいで、唯一、私たちが気になるのは名前と文面のタイプミスぐらいだった。いくら死亡通知の名前と定型文を読んでも薄情なくらい何も感じなかった。
私とシチレーは、マイナー言語が扱えることで駆り出されていた。
東洋言語系は、タイプが使えないものも多い。定型文がすでに用意され印刷されている言語でさえ、定型文に手書きで数行書きこまなくてはいけな事項があるし、定型文が無い言語は読める程度に丁寧な字で一から書類を作らなければならない。
私のように訓練所で複数の言語を扱えるものは訓練所から既に何名か駆り出されている。
人を痛めつけるだけのサディスティックな訓練にうんざりしていたので、ここでの作業は天国だった。手当も悪くはない。作業内容もそれほど難しくない。文章に対する各々の文化的な知識やルールの知識が必要なくらいだ。思わぬところで自分のスキルが役に立った。
特に私の場合、漢字が扱えるというだけで重宝された。
そういった書類は沢山あるわけではないが、定期的にやってくる。その場合は古風な文言を紙にできるだけ丁寧に書き連ねる。唯一、私が出来る残された家族への思いやりだ。
「昔は人が一人死ねば大ニュースだったのに、いまじゃ百人死んでも当たり前になっちゃったね」自嘲(じちょう)気味に隣に座ったシチレーが話しかけてきた。
「今の所知っている名前じゃないってのが救いだね……」
さすがに、あまり長話もできないので、二人一緒に横目で目くばせをして、何とも言えない感覚を分かち合った。
―――
段々と、日数が過ぎていくうちに各々のカリキュラムは更に細分化され、専門に特化し同じ課以外の人間が何をやっているのかはよくわからなくなった。もちろん聞けば、それなりに答えてくれる。でも、それが本当か噓なのか調べる術は私にはない。
それぞれが、それぞれの目的で動いている。別に特定の思想で動いているわけではなかったのだが、それなりに訓練生とはいえ機密情報を扱うようになってくると、いやがおうにも張り詰めた空気が生まれてくる。仕方のないことだとあきらめるほど私は割り切れなかった。
久しぶりの休日の夜。サロンの娯楽室の一つに、暖炉とピアノのある部屋があって、再会するときはそこを待ち合わせ場所にしていた。毎回、ピアノは美味い下手は別として、誰かしらが弾いていた。
私は一人掛けのソファーに腰を下ろし、気怠(けだる)そうに耳を傾ける。この部屋は、いつのまにか騒がしいパーティーなんかが苦手な子たちが集まるようになっていた。
コーヒを飲みつつ、ソファーでうとうとしていると、突然誰かの気配を感じた。誰かが後ろから私の方へ手を回して抱きしめてきた。
私は振り返る。
「待った?」屈託(くったく)のない顔で笑うレーニャだった。
「遅い」
レーニャは私の髪に指を絡めてくる。そして首筋に挨拶代わりのキスをしてきた。そして「ゴメン」と一言。
私は微笑む。レーニャの声を聴くだけでこの世のすべての事が許される気がするのだ。
話したいことはいっぱいあった。どうしようもないくらいに、でも言葉にすることは出来なかった。余計な事を行ってしまうと、今までの関係から何から、全部壊れてしまいそうだったから。
人の関係はもろい。一見強いつながり思えるものでも、あっけなくほころびる。
だから私は言った。「朝まで一緒にいてくれない?」と。
―――
「ねえ、人って死んだら何処へ行くと思う?」ベッドで微睡んでいると急に隣にいたレーニャが話しかけてきた。
私は身体をレーニャの方に向けた。「うーん……わからない。お墓の中かな?」そんなことを私は言った。寝ぼけているわけでは無いのだが、頭の中がグルグルして、思考がまとまらない。
「私は何処にもいかず、消えるだけだと思う。何もなかったかのように」
「急にどうしたの?」
「なんでもない」
「そう」とつぶやくように言うと、私はレーニャの髪を撫でた。
レーニャは会うたびごとに、少しずつ、以前より更に悲観的になっていっているようだった。あまりいい傾向ではなかった。とはいっても、私が何かしたところでどうなるわけでもない。
それに私はレーニャじゃない。どんなにそばに寄り添っても、彼女の心には遠くにある。そしてそこには永遠に近づけない。そんな気がした。
だから私はレーニャと手を絡め、肌を寄せ合う。たとえ意味なんてなくても、今は側にいたかった。私にできる事と言えばそれくらいなのだから。