The Smoke 第四話:怪人陳張鄭(チン・チャンチョン)教授

第四話
怪人陳張鄭教授
Episode 4: The Mystery of Professor Ching Chang Chong

1.
「気分はどう?」
  耳元で幼い声が響いた。
  「痛い」
  「そりゃあ、ねえ。お腹に穴が開いてるんだから」
  「今が何時か分かる」
  「今年の今日」
  声の主は呆れたように溜息を付いた。
  「頭は大丈夫そうね。弾も命にかかわるところは外れてたわ、もう取り除いて残ってない。感謝しなさい。とりあえずしばらくは安静ね。まだ激しく動いちゃだめよ」
  「うん……」和久は、頷(うなづ)きとも呻(うめ)きとも取れるような声で答えた。
  「それで、今回はどう処理された?」
  「スピードの出し過ぎによる交通事故。詳しいことは秘書の人に聞いて。私も詳しくは知らないの。処置はこっちで、全部やったから、命に問題は無いはずよ。鎮痛剤打っといたから、目を閉じて静かにしていれば、明日には少しは楽になってるから」
  「すまない」
  「私は大丈夫。だから、今は休んで」

2.

目が覚めた時に和久の目の前にいたのは見覚えのある顔だった。眼鏡越しに見える瞳は、どこか怒っているような、そんな感じだった。
  「大人しく自宅療養しているかと思えば、あなたを現行犯で逮捕した方がいいかしら?」
  包帯を巻いてはいるものの和久は上半身裸でベッドに横になり、側には男物のブカブカのパジャマの上着を着た年端もいかない少女が寄り添っている。
  明らかに不快そうな表情をしている舞を見て和久は笑いながら「そりゃあいい」といった。
  「どういうことか弁明を聞こうかしら?」
  何か言おうとした矢先。少女が口を開いた。
  「私はこの人のメディカルを担当してるの。信じられないでしょうけど」
  「まあ、そういうことだ」和久は言った。
  「それと、ご期待に沿えず残念だけど、残念ながら、私はバージンよ。自分の人生設計をパーにするつもりもないしね。信じられないなら、ちゃんとしたところで検査を受けてもいいけど」ニヤリと年相応には見えない笑みを浮かべた。
  「ねえ、それ意味わかって言ってる?」
  「もちろん」
  「私はそろそろお暇(いとま)させてもらうわね。鎮痛剤は飲まなくてもいいけど、抗生物質はやめないでね、耐性菌とか出来たら治るものも治らないし厄介なことになるから」
  そういって、パジャマを着たまま部屋から出て行った。しばらくすると別の部屋のドアが開く音がした。
  「メディカルってどういうこと」舞は問いただすように訊いた。「あなた一体何やらせているの?」
  「そのとおりの意味。別の意味では実験台ともいうね」
  「話がつながらない」
  「ギフテッドって知らないか?」
  「高知能児の事でしょ、それで?」
  「そう、あの子はその一人」
  「その場しのぎの噓にしては陳腐過ぎない? それで、あの子の名前は?」
  「倉本雪乃(くらもとゆきの)。本当に一応大学に行ける程度の学力は身に付けている。調べればすぐわかるよ。だけど」
  「だけど?」
  「それが元で、両親から見捨てられた。その能力故に、前の学校でも煙たがれていたみたいだ。それで施設に預けられてたところを見つけて、それで支援しているんだ。表情には出さないがあの子も結構フラストレーションを溜めてたみたいで、今はわりと生き生きしているよ」
  「預けている施設のほうは何か文句は言ってこないの」
  「彼女の特殊性をわかっているから、理解してもらっている。僕のほうとしてもボランティアとして、施設運営も支援しているしね」
  「学校へは?」
  「行かせている。今の所問題は起こしてないよ、単位制の私立学校だし。必修単位取ったら割と自由になるんだ。あの子は、もうすでに義務教育で必要なだけの単位は殆んどとってしまったみたいだから、暇なときはうちの傘下の研究所で、子供だから働かせられないけど、色々やらせている。今の所、問題は起こっていないし、所員とは僕にはわからないような小難しい話をしているよ。それと並行する形で僕のメディカル担当をやってもらってる、医療行為を行うにしても、なかなか他人の身体はいじらせてもらえないからね。だから、僕の体を使わせている。おかげで、あの子には僕の身体のことは全部お見通しってわけだ」
  「ふざけた話か悪い冗談にしか思えないわね」
  「投資なんてそんなものさ、傍(はた)から見たら馬鹿げているし、無駄に思える」
  「あなたはどうしてそこまでやるの」
  「見つけてしまったからね。それに僕は保護者にはなれない、妻帯者じゃないし、血縁関係も無いから。唯一出来るのは経費支弁くらいだ。一応、高校卒業程度の学力は確実にあるし、この国じゃ飛び級も出来ないから、その中でベストな選択を取らせられるようにね」
  呆れたような顔をしながら「私には理解できない」
  「どんなモノだって環境が必要さ。努力だけじゃどうにもならない事もある。能力を持っているのに可能性を潰すっていうのは、何よりも僕には耐えがたい。それだけさ」
  警部補はそんな和久の姿に呆れているようだった。

3.

「クソッ」男は自分自身に悪態をついていた、自分の生気のない真っ白な肌を睨み付けながら。
  男の手と足は、日に日に変質していっていた。今では触手を思わせる様な形に変化していた。どうにか、薬を打てば、一時的に元の人間の形を保っていたが、保てる時間は日に日に短くなっている。
  薬の効果を最大限利用するために、なるべく使わないようにしてはいるが限界がある。
  薬で抑えつけられなくなるのも時間の問題だった。
  自分に残されている時間はない。彼の一挙手一投足からも態度としてにじみ出ていた。末端が肥大化し、触手のような突起物の出来た彼の手じゃ、紙に記述するのも、キーボードでコンピューターに入力するのも日々酷になってきている。これでは実験もままならない。
  男にとってもはや、手段を問えるような余裕はなかった。この研究を一段落させるには思い切った事をしない事にはどうにもならないことも解っていた。彼にとっては行動とは、実行するかしないか。その二択だった。
  誘拐。
  それは男にとって、思い切った決断だった。
  目星はつけてあった。

***

 それはすぐさま行動に移された。男は自らの身体に特殊な薬剤の入った注射を打ち、肉体を一時的ではあるが人間に近い姿に戻した。  完璧というには、程遠かったが人間の姿は保てている。車で街に出る。一人の少女の姿を見つけると、先回りして待ち伏せた。そして、男は、一人の少女に襲い掛かった。彼女の体には、得体の知れない触手めいたものが巻きついた。胃を締め付けたような呻き声。少女は暴れることなく気を失っていた。

* * *


  応接間にあるような革張りのソファーの上に寝かされていた。タオルケットがかけられている。
  「ここは?」
  「私の研究所だ。初めまして倉本雪乃さん」男の声が聞こえた。
  発音に違和感はないのだか、どこか中国風の訛りの様な癖が残っていた。
  少女が部屋を見回す。色々な研究道具や資料が乱雑に配置され、汚いというよりモノが溢れすぎていると言った方が正しかった。部屋自体は清潔で塵や埃などは見当たらない。余裕のない部屋と言った感じだった。
  「いったい何のつもり」
  「反抗的な態度さえ取らなければ悪いようにはしない。私は君の味方でもある」
  声の主が姿を現した。
  人の形は保っているものの、四肢は尋常ならざる姿だった。
  中華風の長袍(チャンパオ)に馬掛(マーグァ)というゆったりした服装の先端から見える、イカの様な病的に白い皮膚、半透明で血管が透けて見える位だ。手の形も変形して肥大化しているのか触手の様にも見えた。まるでキョンシーイカを合わせたような化物にさえ思える。
  「あなた、何者?」
  「しがない研究者崩れ、と言ったら語弊が出るかな。今はプロフェッサー・チン・チャンチョン――陳張鄭(チンチャンチョン)教授と名乗っている」
  「その手は……?」彼女は怯えるわけでもなく、むしろ興味を持ったようだった。
  「細胞が変質してしまって、もうこれ以上は戻らない」
  「何をしたの」
  「自分を実験台にしたんだ」
  「何のために?」
  「全ては他人の幸せの為だ」
  「結果は?」
  「見ての通り不安定。最終的には押さえきれなくなって、自ら崩壊を始めるはずだ。崩壊のプロセスがどんなものになるかまでは予測は出来てないが」
  「不完全だったのね」
  「そういうことになる。だからといって何もしなかったわけじゃない」
  「そのようね」
  「残された時間がないんだ。こんな形にはなってしまったが私の研究を手伝ってほしい。今くらいは、自分の為に生きようと思ってね」
  そう言って男は今回の詳細を話した
  「……だから正攻法で攻めるには何かと問題なんだ」
  「それで私なわけね。でも何故?」
  「君の境遇に何となく親近感を覚えた。君の事はある程度調べさせてもらったよ」
  彼女は、ふっ。と笑っているのか、諦観(ていかん)しているのか判らない表情をした。
  「それで、私は何をすればいいの?」
  「この研究の成果を公開してほしい。将来、誰かが引き継いでくれるように」
  「話はわかった。それじゃ、今までのレポートと研究ノートみさせて。資料を読み込まないと始まらないから。それから考えさせてもらうわ……といっても私に拒否権はないんでしょうけど」
  「ああ」と男は言う「そのかわりと言っては何だが資料は必要だったらいくらでもコピーしてかまわない。使ってないPCや記録媒体はいろいろあるから好きなのを使えばいい。あと白衣は使ってないのがいくつかロッカーに入っている。大きいと思うが許してくれ」

4.
澤瀉和久のもとに奇妙な封筒が届いた。横型の中途半端に厚みのあるくたびれた封筒だった。その封筒はどことなく、郵便局員がふとしたきっかけで放置してしまい、そのまま長い間配達されなかったような、そんな物悲しさのようななものがあった。
  差出人はProfessor Ching Chang Chongおまけにご丁寧に筆文字で『陳張鄭』と漢字表記まで記してあった。
  チン・チャンチョン教授?
  その差出人を見て、和久は顔をしかめるも、中身が気になるのか雑に封を開けた。
  中にはデータの入った記録媒体が入っていた。
  自分のパソコンで、データを確認する。動画ファイルが一つ入っていた。
  再生する。
  無機質な部屋
  ぶかぶかの白衣を着た少女と、一部しか見えないが、良く映ってはいないが大きな人影の様なものが少し写っていた。線の細いひょろりとした長身の男に見えた。
  紙を持った雪乃が発した言葉。
  「倉本雪乃は預かった」
  それだけだった。
  雪乃の方も読み終わった後、これでいいの? と言った感じで目くばせをしている。映像からは緊迫感の様なものは感じられなかった。
  そして映像は終わった。
  今の所無事らしい。
  しかし、和久にはわからなかった。どういった意図でこの映像を送ってきたのか。
  映像データをコピーし、封筒の中も外も一通り確認してから、警察に連絡した。

5.
録画を終え、ビデオカメラから離れると。
  「意外とちゃんとした見た目なのね。それで、本当にこれでいいの……黃雪飛(ホァン・シュウフェイ)教授? それともプロフェッサー・イエローというべきかしら?」
  「なぜその名を」
  「そう構えないで。あなたの論文は以前拝見させてもらったわ、細胞の変質についてかかれたものを」
  「よくわかったな」
  「筋の運びとか、書き方が似ていたから」
  「自分では、そういったのは意識しているつもりはないんだけどな」
  「個性というのはそう言うものよ。そんな事よりも、さっさと作業始めましょう」

6.
「心配?」警部補の口から出たのは優しい声だった。
  「ああ。言わなくてもわかるだろう」和久は言った
  最初に連絡したのが十枝舞だった。連絡を入れたら、和久の住んでいるアパートにすぐに飛んできてくれ、すぐさま手紙と映像データを見せた。
その後の行動は早かった。
  警部補という事もあって、すぐに警察の色々な所に手を回してくれたらしい。いろいろな事が段取り良く進んでいる。
  「待つの。それが今あなたがするべきこと。送られてきた映像も解析に回してるから」
  「それは心配してない」
  「警察を信用してくれてるの?」
  「他に誰を信用する? さすがに僕もそこまで偏屈な人間じゃない」
  「意外ね」
  「今は頼れるものは何だって頼るさ」
  「いまは、無事を祈るほかないわ。それがあなたの仕事」
  「これは一般的な児童誘拐ではない気がする」
  「それは同感。それだったら連絡もなく最悪の結末を迎えるわ。社会が裕福になって身代金誘拐なんてのが、ほぼなくなったこのご時世、犯行声明を出してくれるだけマシよ」それだけで、十分な捜査資料になるし有益な情報になる「情報のないまま迷宮入りよりは」
  「この名前もふざけてる、大体、陳(ちん)も張(ちょう)も鄭(てい)も中華系の名字じゃないか。おまけにチン・チャン・チョンじゃ、漢字の発音が日本、中国、韓国をまたいでる」
  「名前も差別的ステレオタイプ的な名前。この時点で、おふざけというよりも主義主張が何かしらありそうね。理由はどうあれ犯人は誘拐した事を伝えたかったとみるべきじゃないかしら。心苦しいでしょうけど、こっちで何かわかったらすぐ連絡する。だからあなたも、犯人からメッセージか何かあったら連絡ちょうだい。決して一人で動こうとしないでね」

7.
研究所では、昼夜問わず実験が行われていた。
  「体調はどう?」雪乃は陳張鄭教授に話しかけた。
  「良くはないさ。休まなくていいのかい」
  「私も自分の事は自分が一番知ってるから」
  雪乃はそう言ってアイコンタクトをする。
  陳張鄭教授は微笑んだ。
  「もし、どうしようもなくなったらその時は……」
  「言われなくてもわかってる」
  「それならいい」
  教授は最初に会った頃よりも、かなり弱っているのが、雪乃の目にも見て取れた。今までの実験結果と成果をまとめるだけでも、発表が出来れば面白い事になる事も理解していた。限られた時間の中でどこまで精度を上げる事が出来るかが勝負だろう。彼が、なんでここまで執念を燃やすのかは理解できないが、なぜか最後まで寄り添ってあげたくなる。彼にはそんな何かがあった。

8.
チン・チャン・チョン。
  この名前はアジア系に対するヘイトか、それとも何かのメッセージだろうか?
  和久は、その名前を元に関連しそうな人物を当たっていた。
  何よりも情報が少なすぎる。他に何かヒントになる物はないのだろうか。映像も撮影された場所の特定が出来るものは何もない。
  雪乃は男といる。
  彼が求めているものは、普通の人が求めている事とは違うはずだ。

* * *

 あれから数日が過ぎた。警部補から「捜査線上に上がっている一人の男がいる」と伝えられた「ただ、居場所がつかめないの、というよりも生きているか死んでいるかもわからない。でも、確率として考えて、彼がこの事件の犯人である確率が高いの」
  「そいつの名前は?」
  「ホァン教授。漢字で書くと『黄色の黄』の字。これは私の推測なんだけど、自分の姓に黄色つまり黄色人種の意味もあることを皮肉って、それに付随する色々な意味を込めて陳張鄭なんてふざけた名前をつけたんじゃないかしら。こればかりは当人に聞いてみないとわからないけど……。申し訳ないけどこれ以上は捜査に影響が出るから、こちらから言える事はないわ」
  「別にかまわないさ」

9.
澤瀉和久は、舞から教えられたホァン教授―黃雪飛という男について集められるだけ資料を集めた。
  別名プロフェッサー・イエロー。
  専門は細胞学。幼少時から、神童として扱われ、有能な若き研究者としても有名だったようだ。
  しかし彼は、細胞の変質についての論文を発表した後、表舞台から姿を消す事となった。人間関係のトラブルがきっかけだったようだが今となっては、その事について詳しくわかる人間もいなかった。
  一般的にはニュースにならなかったが、学会内ではかなり大きい問題になったようだ。論文自体はかなり素晴らしいものだったらしく、それからは、奇妙な噂話が消息がわりに伝えられていたようだが、それもいつの間にか消え去り、忘れ去られてしまった。
  その奇妙な噂話も、眉唾物だった『――彼は自分の理論を証明するために、自分の体を実験台にした。そして、その実験は今も続いている』
  それ以上は調べても無駄だった。
  あとは着実に、足を使って証拠を探し回るしかないようだ。ただ、最後の噂話だけは、引っかかった。
  ――自分の体を実験台に……。
  普通の人間に手を差し伸べてもらう状況でないとしたら、確かに雪乃を欲する理由になる。有り得ない事じゃない。だとしたらその実験をどこで行っているか、それをどうやって絞り込むかだった。
  和久は、わずかなその可能性にかけ、この街一帯をしらみつぶしに調べる事にした。
いくつもの空き家や、怪しげな建物をさがしてたどり着いたのは川沿いの二階建ての建物だった。
  排水設備が動いている。ここ一帯は、だれも住んでいないはずだった。人の気配がある。
和久はスーツの上からチェスターフィールド・コートを身にまとい、フェドーラを被り、建物内部に入っていった。

* * *

  そこでは、少女と、得体の知れない見た目をした中国服の男が科学実験を続けていた。
  「動くな、陳張鄭教授。話を聞かせてもらおうか」
  「スモーク!」雪乃が叫んだ。
  「よくここがわかったな」男は言った。息が荒い。
雪乃は、その様子に焦っていた。「ちょっとまって! 様子がおかしい」雪乃はそういうと「ねえ、大丈夫? ねえ、聞こえてる!?」雪乃は、男に問いかける。
  中国服の男は苦しそうにうずくまる、しばらく様子を見ていると男は見ているうちに肉体が変質しているのがわかった。
  急いで近づく。
  「ダメ、逃げて!」雪乃の叫び声が部屋中に響いた。
  巨大化した肉塊が咆哮をあげる。
  先端が触手のようになり大量に蠢いている。あらゆるものを破壊しようとしているように見えた。その肉塊は意識もなくただ本能のまま動いている。
  「逃げて! 捕食されるわよ」
  触手が雪乃にまとわりつこうとしていた。
  「危ない」
  スモークは少女の肢体を抱きしめた。触手がスモークの身体を締め付ける。
  スモークはカエルを踏みつぶしたような呻き声を上げた。どうにか身動きを取ろうとするが、締め付ける触手はほどけてはくれなかった。
  雪乃の方は、まだ空間に余裕があるらしく、白衣のポケットを漁っていた。白衣の中から大ぶりの注射器を取り出した。
  「待ってて、多分これを打てば……」
  触手に巻きつかれ、動きが遮られる中、雪乃は触手の一本に思いきり注射器を突き刺し、薬剤を打ち込んだ。
  少しの間をおいて、急激に触手から弾力が失われ、水風船のように肉の塊が、どろどろと液状化し始めた。
「走れるか? ここから逃げる」
  スモークと雪乃は、入り口に向かって走り出した。
  薬を打たれた肉塊は理性を取り戻したかのように、静かになった。そして、這いつくばるようによろよろと、半固形状化した肉片が動きだし、窓から、自ら川に飛び込んでいった。
  そして、陳張鄭教授と名乗った男だったものは、水の中に沈んでいった。
  外に出た二人はその様子を遠くから見つめていた。
  水面には熱いコーヒーに入れて溶けたマシュマロのように得体の知れない泡が浮かんでいたが、それもしばらくすると消えてしまった。
  「これで良かったのか」スモークは雪乃に問いかけた。
  雪乃はうんと頷いて「こういう運命だったのよ」といって水面(みなも)を見つめた。
  つぶやいた言葉は儚(はかな)げな響きがした。

10.
雪乃は無事に保護された。特殊な事件故に、色々詳細を長い間聞かれたようだが、しばらくすると普段の日常に戻っていった。
  あの後、川の中も証拠品の為に捜索されたようだが陳張鄭――黃雪飛教授の痕跡は見つからなかった。しかし、映像資料と研究ノートなどが証拠となって、被疑者行方不明の形で事件は幕を閉じた。
  数か月後、ネットにある論文が掲載された。投稿者である少女によるレクチャーと再現実験の動画と共に……。
  論文が発表された事により学会、メディア含め、一時騒然となった。行方不明だった黃教授の論文である事に加え、共同執筆者はまだ年端もいかない少女だったのだから。
  その後、論文執筆者の一人である雪乃は質疑応答には自ら出向き、彼女なりの見解を述べた。更には、黃教授の集めた今までのプロセスとデータの現存しているものの大半を全世界に公開した。狂気と思われていた実験内容に光が差し込む事になった。
  新たな歯車が動き始めたのだ。

第四話:怪人陳張鄭教授 終