とある日のグレートギャツビー

雨は止んでいた。
 海にたゆたうクラゲのようにくたびれたビニール傘とカバンを片手に、僕は職場近くの中規模書店のドアを開けた。電車の時間はまだずっと先だった。
 本屋に入ってまず向かうのは、海外文庫の棚。
 ハヤカワ文庫。
 創元推理。
 新潮。
 その他いろいろ。その後、新書と学芸文庫の背表紙のタイトルを見回したあと、おまけのように日本人作家の棚へ行く。その時点では立ち読みはしない。欲しいマンガもラノベもないので、漫画とライトノベルの棚はスルーし、硬軟両方の表紙がそろう文芸書の棚を眺めた。
 立ち止まったものの、本を手にすることはなかった。
 結局最初に立ち読みしたのは、雑誌売り場のNewsweek日本版。その後Courrier Japon、つぎに今日発売の週刊新潮と文春。流し読みだったので記事の内容はもう思い出せない。唯一覚えてるのはロシアのプーチンが奥さんと離婚した事を書いた記事くらいだ。
 大して買うものもないなと思って、立ち去ろうと思った時、ふと先週土曜日、世界ふしぎ発見フィッツジェラルドを特集していたのを思い出し、海外文芸の棚に引き返した。ハードカバーに紛れ、小ぶりな新書サイズの本があった『グレート・ギャツビー』。訳者は村上春樹だった。
 実は、このタイトル既に持っている。大学時代に古本屋で違う訳者のを一〇〇円で手に入れていた。大学の授業でアメリカ文学の講座を取った時に資料で買ったものだ。しかし、数行読んだだけで挫折してしまったのだ。
 正直、なぜこの作品が称賛されるのか意味がわからなかった。
 そんなことが頭をよぎっていたはずなのに、僕はレジで千円札をだし、両サイドにピンクの線が入ったレシートと石ころみたいに価値の無い様に見える小銭をもらっていた。
 本屋を出る、湿気が身体中をラップでぐるぐる巻きにされたように体中にまとわりついた。そんな不快感をよそに、僕は駅へ向かって歩き出していた。
 雨が振りそうな曇り空。
 感傷的な気分。
 そういったものが、僕にこの本を買わせたのだろう。
 まっすぐ歩いた。信号を渡り、駅の中に入り、改札を抜け、プラットフォームへ出る。ちょうどよく、電車が待っていてくれた。端っこの席に座り傘を脇に、カバンを膝の上に乗せ、持っていた本を開く。
 発車のベルが鳴る。
 圧縮された空気の排出。
 ドアの閉まる音。
 文字を眺める。身体中に文章が染み渡ってくる。僕は口角を少しだけ上げた。