常識ってみんな違うよね?

休日なので脳味噌が軟体動物みたいにダラダラです。そしてそのダラダラ感がとても愛おしい。という事で、ここ数日IQ下がりっぱなしの頭でどーでもいいことをダラダラ書き連ねようと思います。なんか『常識』と言う言葉が自分の中に気になったので、それについて、思ったことを垂れ流し。普段は常識なんて自分は一切考えてないんですけどね。

みんなが持っている常識とか価値観って深く話してみたりすると違ったりするよね? 日本語の『みる』と言う、目を使う行動をあらわす単語みたいに、音だけだと違くはないけど漢字にすると(見る、視る、観る、看る)の使い分けがあるように。見ている範囲が違ったり、広かったり、狭かったりとほんの些細だけど、思わぬところで齟齬が出たりってのは良くあることなんだろうなと思います。

でも日本語という言語で考え、日本という国で生活しているから、文化的な共有感は感じられる。だから常識という大まかなくくりが、なんとなく空気で理解できるってことで、わかった気になっているだけで。案外わかってない気がする。

学生から、社会に出るようになると勤めている企業や、仕事内容で価値観、視点てのはバラけてしまう。学生時代仲良かった人と久しぶりに再開して、食事をしたりすると、時々、理解はできるけど、どこか噛み合わなくなる経験は多かれ少なかれ誰もが体験する事なんじゃないかな? 昔話は出来ても、今の話は上手くできないって感じで。

自分なんかは、昔から、人と話したりコミュニケーションを取っていると、人とは違う視点でモノを見ている人間だと思う事が多々あります。モノの見方がマニアックと言うか、些細な違いに固執したり、逆にみんなが不安になるようなことに大して何も感じなくて薄情ものに思われたり、考え方の違いで大きな集団にはなじめなかったり、なんか妙に孤独感を感じる事も結構あって、悩んだこともあった。けど、その距離感みたいのが自分自身を作っている部分でもあるのでその部分は自分なりに受け入れている。

後々考えてみると、自分が正しかった場合もあれば、自分が間違っていたこともあるし。間違ってたら、素直に認めて方針転換すればいいやなんて考えの楽観主義者です。一応、殆んどの人間の肉体と脳味噌は柔軟性持っているし、ある程度他のものを許容しながら今も生きてるきがするんだよね。

自分の思ったこと、感じたことに対して素直に行動しよう。ってのがここ最近のスタンス。その方が楽しいもん。自分のしたいことを我慢して生きたくないな。まあ、いろいろ生き辛いこともあるけど結構気に入ってる。

結構、自分みたいな人間にとってこのインターネットの世界は、規制もしがらみも殆んど無い状態でやりたいアイディアがダイレクトに実行できることも多いのでいろいろ助けられることが多いです。それとリアルがもう少し、上手い感じで繋がってくれればいう事なし。

社会生活送るにはもちろん、他人への気遣いは無くてはならないけど、常識って曖昧なものにがんじがらめにされているのってなんかおかしいと思うんだよね。自分が常識はずれな事ばかりやってるせいかもしれないんだけど。

自分らしく生きようとすると、常識って邪魔だよね?