僕はたいした理由もなく君の手を握る 第一章

運命は変えることが出来ない。たとえどんなにあがこうとも……。それは過ぎ去ってしまった日々と同じで、戻ることはないのだ。


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 昔の話をしよう。


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 私はその頃、とても寒い所にいた。そこに私の学び舎(や)あったからだ。

 魔術学舎と呼ばれる寄宿学校。

 学生からは単純に『学舎』とか、『冬の監獄』などと呼ばれていた。

 学舎は古く、建物自体のデザインは荘厳だが外壁が剝がれて煉瓦(れんが)がむき出しになっていた。歴史ある教育機関で学術的にもそれなりのレベルの所なのだが、物資不足で補修もままならない。

 その理由は、ある事件がきっかけだった。

 変身中の魔法少女が何者かに魔術狙撃され殺された。犯人は未だ見つからず皆が疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥(おちい)っていた。

 さらに、協会・組合と呼ばれる魔法少女が所属する二大組織による対立の様相まで示し始め、縄張り争いの関係上、もともと水面下で対立していた両組織だったのだが、今回の事件のせいで燻(くす)ぶっていた今までの不満が一気に噴出し険悪な様相となっている。

 組織対立は日に日に激化して、両組織に報復行為とも取れる破壊活動が頻発するようになった。

 血で血を洗う抗争。

 臨戦態勢。

 有事独特の閉塞(へいそく)感。

 それは冬の監獄の学生たちにも暗い影を落としていた。

 大半の学生は寮生活。私も、ある一人の女の子と同じ部屋で一緒に生活していた。

 真っ赤に燃える炎のように赤い髪。魔女の伝承そのままに炎を宿した瞳。

 表情はどこか鋭く、それでいて綺麗だった。

 その風貌(ふうぼう)から彼女はこう呼ばれていた。

 Красный(クラースナイ)ведьма(ヴェヂマ)―紅(あか)い魔女―と。

 彼女は、学舎でも飛びぬけて優れた人物だった。特待生扱いも頷ける才能と、確かな技術を持っていた。

 こういうのを天賦(てんぷ)の才というのだろう。

 傍 (はた)から見たら、欠点が一切見えない。ほとんど完璧と言ってよかった。

彼女の名前はエレナと言った。外見の美しさに加え、身のこなしも上品だった。

 わたしなんか彼女と比べると、幽霊か悪霊の類(たぐい)に分類されそうだ。

深淵(しんえん)な闇のように長い黒髪。

 切れ長の目。

 おまけに喜怒哀楽を表に余りださないので、それらから感じる印象の為に時々、にらんでいると誤解されることもある。東洋の血を引く見た目を除けば、私は二つ名も持たない一人の女に過ぎなかった。

 何の因果かわからないが、ある時、私は彼女と同室になった。

 それまで、一切エレナとは、接点がなかったのだが、いざ一緒に生活してみると気さくで話しやすく、気も合い、昔からの友人の様に仲良くなった。

 なかなかそういう出会いは無いものだがゼロではない。彼女も運命の巡り会わせの中の一人だった。

 エレナは私に愛称のレーニャと呼ぶようにと言った。そっちの方が自分らしい響きなのだと言った。

 別に断る理由は無かった。

 特別な場合をのぞいて私はそれからエレナの事をレーニャと呼ぶようになった。


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「ああっ、ムカつく」

「どうしたのよ、アリサ」彼女は私をたしなめる。

 相変わらず彼女が私の名前を言う時のアクセントは少し間延びしていて、更に最初のアの音を強めな巻き舌風に発音するのでRのような音に時々聞こえる事がある。おまけにアリサのリの部分の母音を延ばすのでラリーサともアリーサとも聞こえる。それが彼女の母語の癖らしい。最初は違和感があったがこれでも以前よりかは整ってきている。時々は違和感のない発音をするようになってはいる。

 私をたしなめるエレナに、事の顛末を説明した。

「今日もロクでもない男どもに言い寄られた、何が、〝君の黒い髪はエキゾチック〟だ! アイツら人の外見しか見てないのか!?」

「あら、私もあなたの髪好きよ」エレナはそういうと近づいてきて私の髪を優しくなでる。

 私は急に頬が温かくなった。

「レーニャ。そういう意味じゃなくて……もう……」

 そのあとは何も言葉が浮かばなかった。

 彼女が言った言葉はからかいではない偽りのない本意。

 だから、彼女の言葉は私の心に鋭く突き刺さるように響いた。

 どこか見透かされている感じがして調子が狂う。

 何故だかわからないが、彼女の前では余計な感情が削(そ)ぎ落とされる感じがした。

 そんなことを知ってか知らずか「カワイイなぁ。アリサは」と言いながらエレナはじゃれてくる。「アリサもさ、いちいち気にしない方がいいよ。あからさまに危害が加わるような危険を感じてるならともかく、特定の人間に一方的に迫(せま)られている訳でもないんでしょ? こんなご時世だし、みんなピリピリしてるのをどうにか誤魔化(ごまか)したくてこういうとしてるわけだしさ」

「状況は日に日に悪くなってる」

「ここもしばらくすれば、召集令状の束がやってくるはず。私も、縄張り争いに興味はないんだけどね」

「ここも聖域ってわけじゃないからね、下手したら学者の学生・研究者、教師丸ごと戦場に送られる可能性もゼロじゃない」

 外は戦場だった。

 比喩(ひゆ)ではない。

 実際そうなのだ。

 ここ数か月で協会と組合と呼ばれる二つの組織の抗争が更に争いを呼んで、武力紛争のような状態になって収拾がつかなくなっている。日々戦渦(せんか)は拡大し、街には戦意高揚のスローガンが至る所に様々な言語で見受けられていた。

『アストラーニェ』と呼ばれるこの世界は、魔法と言われる能力を持ったいわゆる『異端(いたん)』とされた者たちが、力を持たない者たちから迫害(はくがい)され、さまよいたどり着いた空間だ。

 大元の語源は『風変わりな』とか『奇妙な』という意味の言葉。

 長い時間を経て音が変化しアストラーニェとなり意味は転じ『異なる世界』つまり、『異界』という意味の独自の言葉となった。

 アストラーニェ自体は、多民族社会であり、言葉に関してはそれぞれの地域に住みついた移住者の元々の言語が話されている。

 ただ特殊な空間であり、魔術的な力が発動しているのか他言語同士の会話をしても、おおよその意味が通じてしまう。言語的な差異のせいで、少し会話として歪(いびつ)な部分もあるが、日常生活は問題ない。

 中には体質で魔術に対する能力が弱く、その恩恵を受けられない人もいる。ただ、そういった人たちの大半は生まれたコミュニティ内の言語圏内(げんごけんない)だけで生活していることが多いようだ。

 それ以外にも、技術や知識の伝承の関係である程度のレベルまでコミュニティーを固めている保守的な面もあることはあるが、全体的には流動的な方だ。

 また、魔力は男性よりも女性に遺伝するらしく、魔術労働に関しては女性の比率が高い。男性もいないわけではないが少数派だ。

 戦渦の影響は学舎の方にはまだ少ないが、雲行きは怪しかった。カリキュラムは日に日に戦闘訓練のコマが増えていっている。

 エレナはそんな状況もどこ吹く風で、普段は学舎から与えられた工房に籠りっきりだ。彼女は特待生扱いで、大半の授業は免除されている。その替わり実験と研究に加え、鬼のような量のレポートと定期的な学会での研究発表を課せられていた。

 時々、寝室で横になっていると、パーテーションで区切られたダイニング・キッチンの方から真夜中も何かをタイプする音が聞こえたりする事もある。

 その為、食事の準備や部屋の掃除は私の担当だ。家事労働は嫌いではないし、自分の性に合っていることもあり自分の性に合っていることもあり、部屋で仕事の分担はすんなりと決まったのだ。


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 まだ周囲は青に染まっていて、外は冷え切っていた。

 もそもそとベッドからエレナが起きてくる

 視点の定まっていない表情。

「また夜更かししてたの? ごはん出来てるよ」

 挨拶より先にそんな言葉が私の口から出た。

 エレナは頷き、テーブルに着いた。

 皿の上には小さなパンケーキ。生地の中にチーズが練り込まれているため、焼き上がったパンケーキからなんとも言えない良い香りが鼻腔をくすぐる。

 サワークリームとジャムを添えて、皿をテーブルの上に乗せた。

 それにサモワールと呼ばれる湯沸しとポットが合体したような、器具で要れた紅茶が朝食のメニューだ。

 テーブルに着くと私は小さなグラスに濃いお茶を注いでから、サモワールについた蛇口で熱湯を注いで茶を好みの濃さに薄めた。

 私はスプーンで掬(すく)った蜂蜜(はちみつ)を口に含みお茶を口に流し込んだ。それがこの地域のスタイル。

 幾分奇妙にも思える飲み方だが、慣れた。

 向かい合って朝食をとっていると、エレナはつらそうにあくびをかみ殺しながらパンケーキにジャムを塗っていた。

「根を詰めると身体壊すよ?」

「わかってる。でも、これだけは今のうちに終わらせたい」

 私は溜息をついた。

 エレナは、気まずそうに作り笑いをしていた。私は余計なことは言わなかった。

 朝食を終えるとエレナは手際よく身支度を整え、巨大な革張りのハードカバーの本と書類の束を抱え、さっそうと部屋を出て行った。さすがに学舎に向かう時間になると、目覚めとはうって変わって身のこなしが優雅である。

 私も食器を片づけ、そのあと洗面所で鏡とにらめっこしてから授業の準備をして、部屋を後にした。