僕はたいした理由もなく君の手を握る 第三章
そこそこ上質な用紙に飾り文字。定型文のすぐ下に、名前がタイプされていた。
別に期待したわけじゃないけどすごくあっけなかった。今思えば、数日前にあった、学舎の全員が受けた試験が適性検査だったのだろう。
大半の人間が取り乱すことも無くその通知を受け入れていた。この学舎来るような人たちは、理解力だけは優れていたし、皆、心のどこかで覚悟はしていたのだ。それを受け入れられないような人間は、沈没しそうな船に住む鼠(ねずみ)のように、既に学舎から去っている。そういうものだ。
そして私たちに告げられたのは、身辺整理と次の連絡が来るまで待機。の二つだけだった。
大義のために死ぬつもりはさらさらないが。だからといって家に戻りたいとも思わなかった。どっちがマシか程度だが私は戦場に行く方を選んだ。
その一週間後、私たちは数日中に、訓練所へ行くという事が通知された。
―――
私はレーニャの研究室の整理を手伝っていた。
自分の身のまわりの整理は大体終わっていたがレーニャは違った。
学生にしては持ちの物量が多すぎるのである。おまけに研究室持ちのご身分である。一介(いっかい)の学生が自分の研究室を持つのも異常なことであるのだが、彼女はその対価に見合うだけの成果を残していることも確かである。学会の専門誌に名前が載ってるのは珍しくないし、論文の引用も多用されている。そういう意味では末恐(すえおそ)ろしいったらありゃしない。
そして私は、そんな彼女が気を許している人間の一人である。有難いのは有難いが、そのせいでいくらか気苦労もある。
レーニャを敬愛している人間たちから露骨(ろこつ)に嫉妬(しっと)されたり嫌がらせを喰らうのだ。こっちも攻撃のかわし方や蹴散らし方を覚えたので、そうそうトラブルにはならないが定期的に回避できない突発的な事もある。
だが、レーニャはなんだかんだ言っても私を頼りにしてくれる。周りが思っている以上には関係は上手くいっている感じだ。
研究室の片づけはまず初めにいるものいらないものを分けた。
レーニャの弁によれば、私がいた方が、モノを捨てるときに悩まずに要不要の判断が付きやすいらしい。実際大きなものは私が「これいる? いらない?」の二択を私がして、レーニャが答え、そのあとゴミ袋やゴミ箱に突っ込んでいく形の作業になった。
おかげで予定よりも早く済んだ。
その後は、レーニャが大切にしていたお酒の処分である。
「全部無駄になっちゃった」私に背を向けて、また新しく開けたばかりのお酒を流していた。
流し台の上には割れた瓶や、漬けていた薬酒の中身が残ったままの瓶が散乱している。流しは色々な匂いが混ざって酷いことになっていた。
レーニャは大切に保存していた飲料用の酒を一杯分飲んでは、残りの中身を流しに捨て、また一杯飲んでは流しに捨ての繰り返し。棚に入っている殆んどは、実験用のアルコール類や魔術で使う薬酒だが、いくつか飲む為に高いお酒を紛れ込ませて楽しんでいたらしい。年齢的に飲酒はあまり褒められたことではないが、アルコール自体は実際に実験や研究に必要なものであるから入手は難しくない。
「もったいない……」そう私はつぶやいた。レーニャが自分で購入したものとはいえ、この処分の仕方は贅沢でありながら贅沢とは到底思えない所業だ。
「どうせ、戻れるかもわからないし、保存しておいたのを見知らぬ誰かに飲まれるのも癪(しゃく)だしね。薬酒なら戻ってこれたらまた漬けなおせばいい」レーニャは振り向いて私に言う。
「それはそれで大変よ」
「そんなにたいしたことじゃない」そう言うとレーニャは「何か飲む?」と、小さなグラスを私によこした。
「お酒は飲まないことにしてるの」
レーニャはその足で研究室に常備されている小さな冷蔵庫を開けて「お酒以外にもいろいろある」
冷蔵庫の中にはビン入りのソーダやトニックといった割り材やアストラーニェ外からの輸入物のコーラやら、オレンジソーダが入っていた。
その中で奇妙な形をした青緑色のくびれのある瓶が目に入った。ガラス玉で栓がされている。
「お目が高いわね」
「なにこれ?」
「ラムネ。炭酸入りのレモネードが入ってる。全部がガラスで出来たビンを作っている所も今、ほとんどないのよ。だから、消えていくのを待つだけ。なんだか――ごめん。なんでもない」
レーニャはそれ以上は言おうとせずに口をつぐんでしまった。悲観的にとらえているらしい。
ただ、一瞬ふと見せた悲しげなその表情が、とてもきれいだと思った。
「これで開けて」
おもちゃの車輪みたいな形の木製のカップの様なものを渡された。良く見てみると中央の部分だけ突き出ている
「この出っ張っている所でガラス玉を押し出すの」
「ありがと」
受け取った木製のカップのような器具をビンに被(かぶ)せ掌(てのひら)を使って押し出した。
ガラス玉がビンの中に落ち、一気に炭酸の気泡が湧いた。しばらくすると発泡も落ち着いて、ビンを空ける器具を外した。
「それじゃ乾杯」
レーニャは自分のグラスをグラスを私のレモネードの入ったビンにぶつけた。
ガラスで出来たビンの飲み口は冬のこの季節に飲むには冷たすぎた。二、三口ほど口に含んでからビンの中での泡を眺めていた。
「これから戦場に送られることをどう思ってる?」突然レーニャは聞いてきた。
私はと言うと、実感が湧かないというかよくわからなかった。私にとっては日々の流れの一つとしてしか認識できていないと言った方が正しいかもしれない。だから、こう答えた。
「力を持ってしまったものは、必要なときにその力を使う責任がある。私はそう思うけど?」
レーニャは答えに納得していないのか「誰のために?」と聞いてきた。
「それは……必要とする人の為」
「必要とするって言ったって、悪事を働くために必要だったらどうする?」
しばらく返す言葉が浮かばなかった。下手に反論すると理屈っぽい畳みかけを喰らいそうだったし、余計なことをいって議論をする気は起きなかった。
「……いじわる」小さな子供が悪戯好きの大人を非難するように私は言った。
「冗談よ」
「ねえ?」
「今度は何――」私は、レーニャの方を向いた。
彼女が私を見つめる曇りのない真剣な目は、私の動きを止めるのに十分だった。
唇を重ねてきた。
柔らかい感触。
口の中で感じるアルコール独特の苦み。
私はその行為をただ受け入れるしかできなかった。
唇が離れる。
そしてわずかな沈黙の後、ばつが悪そうにレーニャは口を開いた。
「ごめん。酔っぱらってるみたい」そう言ったレーニャは、どこか冷たい目をしていた。
酔っぱらっていたというのは言い訳でで、レーニャは案外冷静に行動していたんじゃないだろうか? 自分のした行為に恐怖しているのだろうか? それとも別の何かが頭の中を駆け巡っている? 私は頭の中で自分の想像力が、連鎖反応を起こしているのを感じていた。
なのに私は「気にしてない。大丈夫」といった。
ただ、心臓の鼓動がなかなか収まらない。
私の目の前にいる人間の存在、体温、感情そういったものを共有したい気持ちが溢(あふ)れてくる。
「ねえもう一度してもいい?」私はレーニャに向かっていった。
返答を聞く前に、今度は私の方からキスをした。
「これでおあいこ」
レーニャは「ふっ」と微笑んだ。一瞬の表情が今はなぜかとても愛おしかった。