【短編小説】The Smoke 第一話【仮面の男】


Episode 1
Preludes and Nocturnes

第一話:プレリュード・アンド・ノクターン

1.

イレンの音が聞こえる。
  十枝舞(とえだ まい)は急いでパトカーを走らせていた。無線からの情報では中央区の大通りで強盗傷害事件が発生したらしい。最近は心の休まる暇もない。サイレンの音が繰り返されるごとに必然的に車のスピードは上がっていた。急ぐにはそれなりの理由があった。毎回毎回、余計な邪魔が入るのだ。それが彼女を腹立たしい気分にさせていた。
  この極東自治区という場にはいつも通りの日常は存在しない。あるのは、せっかちで留まることを知らない刹那的な毎日だ。
  「ちょっと速すぎ!」助手席に乗っていた前川遙香(まえかわ はるか)が言った。
  「急ぎなんだから我慢して」
  「もう」呆れたように遙香はつぶやいた。
  「口閉じてて、舌噛むから」
  今にもスピンしそうな勢いの急ブレーキ。甲高いタイヤが擦れる音。現場近くの通りに車を止め、急いでドアをあけると、苦みのある嫌な臭いが鼻を突いた。急いで現場に走って行ったが、現場の状況を確認すると舞は走るのを止めてしまった。
  「遅かったか……」舞はつぶやく。現場には身柄を拘束された犯人と、助けを待っていた被害者がいた。この事件を解決させた当事者は既に立ち去った後だった。
  遙香は鑑識が来る前に、事件現場をカメラで一通り撮影していた。
  「現場は荒らさないでよ。やり過ぎるとこれ以上は情報提供しないからね」
  「わかってるよ。もう」
  被害者を舞は保護し、既に拘束されている犯人に手錠をかけた。
  「私たちも舐められたもんね」 
  「別にいいじゃん。余計な仕事を減らしてくれてるんでしょ? 有効活用出来る事はした方がいいって」
  「そういう問題じゃないの! ヒーローを気取った変態に警察が出し抜かれてるのに、呑気にしていられる? 見方を変えればテロリスト!!」
  「でも、犯罪率は彼が現れてから確かに低下しているんだよね、警部補?」遙香は言った。
  「嫌になるわね。一体、世の中どうなってるんだか」
  「こっちとしても風変わりなゴシップは魅力的だよ」
  舞は苦々しい目つきで、いつも犯罪現場に残される名刺を手に取った。表面には、

THE SMOKE

の文字。裏面には、ご丁寧にも事件の一部始終を収めた映像データにアクセスできるバーコードが印刷されている。事件の状況証拠としては十分だ。しばらくしてからやって来た鑑識に名刺を渡す。後は事件の当事者たちの調書を取るだけだ。
  目撃者によると、その男は黒のビジネス用のコートに黒もしくはチャコールグレーのスーツ、フェドーラ帽という出で立ちで、顔はドミノマスクで隠されている。いわゆる大昔のパルプ小説に出てくるクライム・ファイターのような格好で現れるらしい。
  夜の帳(とばり)が下りた街を颯爽(さっそう)と駆け抜け、窃盗などの小さな事件から、政治家のからむ複雑な事件まで、事件の大きさは関係なく、この街の法で裁けないようなことに足を突っ込んでいる。
  誰が言い始めたのか知らないが、皆、彼をこう呼ぶようになった。
――“煙(ザ・スモーク)”――と。
  この街にも現れたのだ、荒廃した街の治安を守る自警団員(ヴィジランテ)が。

2.

「いったいどこで、大金持ちたちのチャリティー・パーティのチケットなんて手に入れたの?」
  「ツテというものはね、思わぬところにあるんだよ」遙香はわざとらしい言い方で言った。
  舞は呆れているのか溜息をつきながら、何とも言えない表情で遙香を見た。遙香はそれ以上、自分の事を多くは語らない。彼女は、業界を問わず妙に太い人脈を持っているのは確かだが、どれほどのものか普段の姿からは見当もつかない。
  二人はこのパーティのためそれぞれの仕事を早めに切り上げ、ドレスサロンでイヴニングドレスを選び、髪形を作ってもらった。舞は普段かけているメガネをはずしコンタクトにした。
  身支度が一通り終わると、遙香に引っ張られるような形で、パーティ会場に連れて行かれた。
  パーティ会場に入ると、遙香は「大丈夫だって、変なことは起きないから」と言った。
  「そういうのじゃないの。潜入捜査の癖か、妙なところに気が向くだけ。建物の全体の配置とか逃げ道の確保とか……」
  「職業病だね。でも、今日は潜入捜査じゃないんだから、色々な事に深入りしないこと。いくら警察の人間だからって、ここじゃ意味ないよ。じゃ、ちょっと私、仕事のコネ作りに行ってくるから。気を付けなよ。気を大きくして、変な男にコロリと騙されないようにね。帰りたくなったら、一人で帰ってもいいから」
  「ここでの連絡は、使い捨て用のモバイルつかった方がいいわよ」
  「わかってる」遙香は頷き、別行動に移った。
  パーティでは高級なシャンパンやワインが開けられ、湯水のように振る舞われた。鮮やかなオードブルや様々な料理、新鮮なフルーツが飾られた、ビュッフェのテーブル。食べ物も申し分ない。あまり目立たないが、満足感を得やすいようなところにそれなりのお金がかけられている。
  人の数も多く、私が主催者だったら挨拶し合うだけで時間はあっという間に過ぎそうな感じだと舞は思った。
  舞はフルートグラスに入ったシャンパンを飲み干すと、空になったグラスをウェイターに渡し、新たにマティーニをもらった。
笑顔を振りまきながら人混みから離れて周囲を観察する。集まる面々もかなりのものだ、芸能人から財界の大物、政治家まで。妙な所に来てしまったらしい。
  しばらくすると漆黒のディナージャケットを着た、品の良さそうな、がっしりとした男が挨拶をしてきた。人当たりは良さそうな感じはするが、ふと見せる表情が冷静で謎めいた感じがする。
  「こういう場所は苦手?」
  「そういうわけじゃないけど、息がつまりそう。苦手ってわけじゃないんだけどね。人と話すこと自体は好きだし、解るでしょ? なんて表現すればいいのか判らないけど」
  「ああ」彼はそう言って頷いた。
  「チャリティーって聞いてたけど、実際のところ、それだけじゃなさそうね」
  「こんなご時世だからね。招待客の方も、それぞれに思惑があってやって来る人も多いんだろう。それに、今回は親しい人たちだけのささやかなものってわけじゃないし。君は誰かの付き添い?」
  「そんな感じ。社会勉強ってところ。あなたは」
  「僕も似たようなところかな。こういうところじゃ、上手に身動きが取れない」
  「話し方から察すると、結構こなれてる気もするけど?」
  「そうでもないよ」と言って彼は笑った。
  そんな時、後ろから柔らかいものが舞を抱きしめてきた。突然のことに声をあげそうになったが、何とか声を押し殺した。
  「見つけた。ちゃんと楽しんでる?」遙香が突然じゃれついてきた。
  「もう……。用事は済んだの?」
  「だいたいね、舞の方は何をしてたのかな?」遙香は舞と一緒にいた男性の方を見て表情を変えた。「あら、貴方は……?」
  「お久しぶりです。パーティはお楽しみいただけましたか?」
  「ええ。とても」
  遙香はさっきの軽く甘えた声とは違い、真面目な口調に変わった。
  「ちょっと待って、何がどうなってるの?」
  「何がどう? って……彼がこのパーティの主催者だよ?」と遙香は言った。
  遙香の言葉に舞は、驚きの表情を隠せなかった。
  「申し遅れました。私(わたくし)本パーティの主催の、澤瀉和久(おもだか かずひさ)と申します。以後お見知り置きを」
  「ご丁寧にどうも。極東自治区警察刑事部捜査第一課、十枝舞警部補です」舞は、落ち着いた口調で笑顔を見せたが、目は笑っていなかった。
  「そう怖い顔しないでくれ。変に気を使ってほしくなかっただけで、からかうつもりはなかったんだ」
「大丈夫。気にしてないから」
  「澤瀉様」初老のウェイターが、彼を呼びとめた。「あちらで、ご婦人たちがお呼びです」
  「わかった」と言って、合図をすると「申し訳ないけど、私はちょっと用があるので失礼するよ」と言って彼は、人混みの中に消えていった。見えなくなるのを確かめると遙香が口を開いた。
  「いやー、あんたもすごいのに目をつけたね」
  「あんな冴えないやつが?」
  「うん。あまりメディアに顔出ししないから、話題だけが先行しちゃって、評判と実情が乖離しちゃってる。変な成り上がりかたしちゃったしね」
  「へえ、意外」
  「あの人、華やかな噂とは裏腹に、意外と生活は地味でストイックって言われてるよ。本人もこういったにぎやかな場所は無縁とは言わないまでも、あまり好まないらしいし。浮名は色々と流しても、実際のところプライベートは全くの謎って言われてる。まあ、噂が錯綜してるからどの程度信じていいのかは微妙だけど」
  「ふうん」
  「もしかして、あまり興味ない?」
  「あまりというか全然」
  「でも、あの人、とある自警団と繫がっているって噂あるんだよね? 資金提供しているとか言われてるけど、こっちはなにもつかんでないから、まだ目をつけるにはちょっと、早いかな……」
  「それを先に言いなさい、ちょっと行ってくる」
  「ちょい待ち!」そう言って、舞の腕を引っ張った「顔は売ったんでしょ、今日はそれで満足しなきゃ。むやみに追っかけると逃げられるよ」
  

3.

あれから澤瀉和久という男を調べてみたが謎は深まるばかりだった。表に出ている情報を調べても、彼個人の経歴については完全に知ることはできなかった。何よりも二十年程前の、大規模テロ事件で両親を失った後、成人するまで表舞台には出ることが無かったのだ。
  成人して、亡き両親の多額の遺産を受け取ることになって、彼の人生の歯車は動き出した。それまでは、ただの一般人だったわけで、誰も気にするような人はいなかったのだ。
  舞は栄養ドリンクのビンを片手に、苦々しく彼の事を書いた記事が映ったディスプレイを覗く。記事の内容は、彼は金を持っているだけで、つまらないただの男と皮肉るだけの中身のないゴシップ記事だった。
  くだらない話のタネなら、いいかげんな噂でも十分楽しめるのだが、確証が必要なことに関しては話が別だ。いいかげんなことは言えない。憶測だけでものが語れたらどれだけいいだろう。警察のなかじゃゴシップで飯は喰えない。
ニュース記事を閉じると
  「くたびれた顔しちゃってどうしたの?」同僚の坂下刑事が話しかけてきた。
  「何かいろいろ疲れた」
  「犯罪者とばっかり付き合ってるからだよ、少しは一般社会のリハビリした方がいいんじゃないの?」と彼女はいった
  「トップが代わったおかげで、その尻拭いまでやらされて、プライベートに割ける時間は、数少ない休みの日だけなのに? おまけに薄給で、私にどうしろっていうの?」
  「そういうこと言うと、上の人に睨まれるよ」
  「どうだっていいよ、そんなの。そういえば、奴の事は何か分かった?」
  「駄目、今までの目撃情報とほとんど変わらない。身長は175-200センチの間、年齢はマスクのせいで確実なことは言えないけど、大方25歳以上40歳未満ってところかな」
  「結局正体は分からずじまいか……。毎日色々と面倒臭い事件が起きるのに、それに加え、コスプレ狂の変態の捜査までしなきゃならない」
  「でも、捕まえたとして、起訴できるかな?」
  「それ以前に、こんなデスクワークじゃ逮捕できないわよ」
  「それじゃ、パトロールでもしてきなよ。報告書とそれ以外の細かい事はこっちで処理してあげるから」
  「結構。と言いたいとこだけど、今回はお言葉に甘えさせてもらうわ。ありがと」そう言って舞はスーツの上から、トレンチコートを羽織って警察署の外へ出た。

4.

トロールと言いながら、結局、街中に車を走らせただけで、そのまま、旧市街跡地近くの駐車場に車を止めた。目的のないパトロールは自主休憩と同義語だ。
  二十年以上前の大規模テロの爪痕のせいで、まだ現場の旧市街の中心地が立ち入り禁止区域になっている。
  立ち入り禁止区域以外の旧市街は解体されその跡地は広い公園になっておりその中に慰霊碑が建立(こんりゅう)されている。その先の立ち入り禁止区域は成人男性の二倍か三倍の高さのワイヤーフェンスで遮(さえぎ)られている。フェンスの上部には忍び返しが付き、簡単にはフェンスを乗り越えられないようにしてある。どういう意図で封鎖しているのかは、一部の人にしか知らされていなかった。
  公園の中を歩いていると、慰霊碑の方に人影を見つけた。
長いコートにサングラスをかけていたが、一目見てわかった。澤瀉和久。パーティの時に会った、あの男だ。花束を抱え慰霊碑をじっと見つめている
  舞はしばらくじっと様子をうかがっていると、彼はサングラスを外し、慰霊碑に花を手向(たむ)けた。そこから見えた横顔からは真剣な眼差しが覗(うかが)えた。あの冷静で謎めいた目から静かな狂気が見えるような気がした。舞は気付かれないように近づく。
  「あなたも、こんなところに来るんだ」舞は後ろから話しかけた。
  その声に彼は、体をびくっとさせて、振り向いた。後ろに立っている人物の顔を見ると、安心したように顔を緩めた。
  「あれ、君は、こないだの……?」
  「ええ、お久しぶりというには短すぎるけど、その節はどうも」
  「ん。ああ、こちらこそ」そう言うと、二人ともしばらくのあいだ言葉が出てこずに、沈黙が続いたが彼の方から「立ち話するのも何だし、コーヒーでもどうだい?」と切り出してきた。
  「気持ちは嬉しいけど、パトロール中だから長話はちょっと……警察官が職務放棄してコーヒー飲んで暇つぶししてるのは問題だし」
  「そう? なら、この近くにコーヒースタンドあるから、テイクアウトして君の車の所まで話をするのはどう?」
  「うん。それなら」

5.

「カフェラテでよかったかな?」澤瀉和久は両手に持った二つの紙コップのうち一つを舞に渡した。
  「ええ、ありがとう」
  「君とこんなところで出会うとは思わなかった」
  「あたしも。意外ねあなたがこういうところに来るような人だとは思わなかった。あなたもご家族が?」
  「ああ。両親が」
  「そう。私は父が、物心つく前だったからよく覚えていないけど」
  「しょうがないさ。もう二十年以上経ったんだし」
  「そうかもね。それで、あのテロの後はどうしてたの?」
  「両親が死んでから。保護施設をたらいまわしにされたり、色々あったよ。人間の嫌な面を見たり……、あんな生活には二度と戻りたくはない。ある程度落ち着いて事件の全容が見えてきた頃に、僕が生きてることを知った祖父が引き取ってくれなきゃ、今頃はどうなっていたか」
  「苦労したみたいね?」
  「そこそこはね。自分が無力であることを思い知らされた。緊急時は常識もモラルも、強い方に有利なように捻じ曲げられるし、おまけに混乱してたから保護施設での扱いもかなり杜撰(ずさん)だった。同じ世代で、一時的であれ、長期的であれ保護施設に保護された人間たちは、大体みんな施設のことは良くは言わないと思う。祖父に引き取られてからは、地味ながら落ち着いて暮らしてたよ。ストイックな人だったからね、金持ちをおくびにも出さなかったし。余計な事は何も知らされなかった。それでも保護施設を経験してたせいか、地味な生活とはいえどかなり恵まれていると思ってたね。保護施設で出会った仲間と比べちゃうと、ほんの些細な差で、劇的に将来に差がつくんだから」
  「へえ」
  「それに、一瞬でいろいろなものがなくなる瞬間を見たせいか、自分も物に対するこだわりみたいなものはあまりなかったからね。ただ、独り立ちしたいと思って、それで必死に勉強して、友人と学生時代にささやかな会社を立ち上げた」
  「それで?」
  「成人したら、突然、父親の残した資産が舞い込んできた。ちょうど仕事が軌道に乗り始めたから、それがいい後押しになった。後は多かれ少なかれ、メディアで騒がれていることと大体変わらない。突然現れた澤瀉の遺児。急に現れたから色々とややこしいことになったよ。あったことも無いような知らない人から妬まれるし、知り合いがよそよそしくなったり。余計な苦労が増えただけさ」
  「意外ね。メディアに書き立てられてるようにもっといけ好かなくて、浪費癖(ろうひへき)のある、金持ちのボンボンだと思ってた。」
  「そう? ある意味では、それは正しい姿じゃないかな? 僕の資産もメディアでもてはやされる姿も、自分の力じゃない。成人してから両親の遺産が、突然舞い込んできた。独立して生きていこうと学生時代から地道に汗水たらして稼いできた金よりも多いんだ。一瞬でそんな金を手に入れたんだから、そう思われるのも当然さ。だからこそ自分にはその資産を有効に使う義務があるとも思ってる。それがどんな形であれね」
  「答え方が、雑誌か何かのインタビューみたい。それ本当に本心でしゃべってる?」
  「誰も、自分の口で完全な本心を言える人は少ないさ。でもなるべく自分の頭で考えていることと近いものを話しているつもりだよ」と言って彼は微笑(わら)った。
  「変わってる」舞も一緒に軽くほほえんだ。
  「そう?」
  「私が知っている限りでは、今までにあったことのある変な男の上位に入る」
  「それは褒め言葉?」
  「かもね」しばらくすると、舞は駐車場のほうを指差した「あそこにあるのが、私の車だから。そろそろ失礼するわ。コーヒーありがとね」
  「それくらい、たいしたことないさ」そう言って二人は別れた。

6.

車に乗っていると、携帯に緊急の呼び出しがかかった。急いで署に戻る。
  匿名のタレコミ。
  麻薬取引。
  上の方で裏が取れたらしい。
  すぐさま対策本部が立ち上がった。私は現場指揮を任された。資料を送ってもらいこれからのプランを立てる。特殊部隊を招集する方向で準備をし始めた。

***

現場への突入時刻は八時ちょうどに決まった。取引情報から、確実に取引が行われると推測された時刻。
  闇取引はいつも深夜に行われているわけでは無い。タイミングさえ合えば時間なんて関係ないものだ。
  夜の冷たい外気に晒され、舞はトレンチコートの襟を正した。現場一帯には先行部隊が配置されている。すでに舞も暴動鎮圧用のライオットギアを中に着こみ、テイザー銃のワイヤレスカートリッジをマガジンに込め、銃に装填(そうてん)した。
  突入前という事もあって、空気が張り詰めている。
  突入予定時刻まで十分(じゅっぷん)を切った。
  時計の秒針の動きにじっと目を向ける。
  そんな時だった――
  煙幕。そして銃声。
  先を越された。
  携帯が鳴る。
  ディスプレイに、催涙ガスと興奮神経抑制剤を感知していた。「全員ガスマスク装着!気を付けて突入しろ」部隊全員に舞は通達した。
  舞もガスマスクを装着し、倉庫の中に入る。
  中は煙で何も見えないような状況だった。中にいた人間は、催涙ガス、もしくは麻酔ガスによって無力化されていた。舞は耳に神経を集中させる。
  足音とコートのはためく音が聞こえる。それを頼りに、煙の中を掻きわける。動く影が見えた。
  「待ちなさい!」そう叫ぶと同時に有無を言わず発砲した。
  弾がスパークした。
  しかし、影は暴れるでもなく。ただ静かに耐えているようだった。
  何て奴だ、電気ショックを喰らっても動いている。続けて発砲するが、煙のせいで照準が定まらない。何度か発砲するが、着弾を示すスパークは起こらない。
  そうしているうちに奴の方が更に煙幕を放出し、一気に視界が遮られた。
  もう追いかけることはできなかった。
  
7.

麻薬取引の現行犯逮捕という当初の目的は達成されたが、嫌悪にも似た不快感が舞には残った。
  獲物を横取りされた動物のような感じだ。それに何よりも、私たちがバカにされているような気がしてどうしても許せなかった。
  私は澤瀉和久のアパートの前まで来ていた。可能性の一つとして、彼がスモークなんじゃないかと思えるのだ。彼自身、あのテロの被害者であり、その時の境遇や、理不尽な扱いといったことがきっかけで、自警主義に目覚めてもおかしくはない。
  資金力という面で見れば、普通の人より確率は高い。それにパーティで遙香の言っていた事も気になった。
  こういうときはウダウダ悩むよりも直接聞く方が早い。
  入口にはコンシェルジュがいて、警察手帳のIDを照会してやっと中に入れてもらえた。セキュリティとプライバシーは高レベルで守られている。命の価値は皆同じとは思わないが、合理的に考えると、そこまでする必要があるのかと舞は思った。
  エレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。神経が張っているのがわかる。事件の対応にも神経をすり減らすが、人と会うのも別の神経をすり減らしている気がする。
  大きく深呼吸をして、エレベーターが最上階に到達するのを待った。
  すぐにエレベーターは上についた。
  エレベーターから降り、そのまま通路を歩くとドアが一つだけあった。呼び鈴を鳴らして、住人が出てくるのを待つ。
  扉が開く。
  ドアチェーン越しに、澤瀉和久の姿が見えた。
  舞は警察手帳を見せ、
  「極東自治区警察の十枝ですが、少しお時間宜しいですか?」と満面の笑みで言った。
  彼も微笑(わら)い返し「チェンジは出来るのかな?」とのたまった。
  「申し訳ありませんがお客様、うちではそんなサービスは行っておりませんので……」
  「乗ってくるとは思わなかった」と彼は言った。
  「私だって冗談くらい通じるわよ。そんな風には見えない?」
  「さすがに許容範囲まではわからないよ」そういってから彼はドアチェーンを外し、「どうぞ」と言って、舞を家の中に通した。
  余裕の表れか、只のバカか判断はつかねるが、彼は他人に対する警戒感を見せなかった。何というか善人を煮詰めたら、こんな感じになるだろうと思える位の穏やかさだった。もしかしたら私は罠にはめられたのかもしれないと、舞は思った。
  何事もなく、リビングに通されると、彼の方から、
  「どうぞお座りになってください」とソファーの方に促(うなが)される。
  舞は頷(うなづ)き、ソファーに座った。
  「今日はどんなご用件で?」
  「ちょっと、ご確認したいことがありまして。捜査の一環です。別につきまとうつもりはないですからご安心を」
  「お茶かコーヒはいかがですか?」そう尋ねられたので、少し考える間を置いてから「それじゃ、お言葉に甘えてコーヒを」
  部屋の中は取り立てて目立つものはなく、殺風景だった。おかげで、部屋は清潔に保たれているが、それと同じくらい部屋の中には虚無的なものが広がっていた。
  部屋をしばらく観察していると、「どうぞ」という声とともにテーブルの上にソーサーに乗せられたコーヒーの入ったカップが置かれた。
  「ありがとう。ねえ、突然で悪いんだけど、あなたってミニマリストなの?」
  視線を上に動かした。考えているのだろうか。
  「考えたことも無いな、ただ身の回りに余計なものを置かないってだけさ」
  「そう」
  「それで、僕は何を話せばいいのかな?」
  「たいしたことじゃないわ。ここ一週間程度の大まかなスケジュールとあなたのちょっとした噂について気になることがあったんでそれについて幾つか質問を」
  「誰かと勘違いしてないかい? ゴシップ誌に載るようなことはしていないんだけど……」
  「申し訳ないけど、あなたの色恋とかプライベートには興味はないわ。それよりもあなたが自警組織やヴィジランテと言われる類の人間なんかを支援しているんじゃないかって噂があって、それについて意見というか思い当たることを伺いたいの」
  「慈善事業には、寄付や資金提供はしているよ。毎年ちゃんと国に税金は納めているから国税局のデータベースにアクセスすれば、ここ数年の金の流れに関しては、見当つく程度には追えるんじゃないかな? それでも足りないようなら収支報告書とかのコピーは提出するよ。あと自警組織に関してだけど、思い当たる節はないな。残念だけど」
  「あなた自身が自警活動をしているっていうのは?」
  「僕がそんな人間に見えるかい?」
  「あなたの事なんてわからないわ。知り合ったばかりで何も知らない。どういう人間かもね」
  「じゃあ一緒に食事でもどうだい? いろいろ話してあげるよ」
  「全てを録画、録音して、全世界に私との食事風景や話した内容をすべて公開させてくれるなら考えてあげてもいいけど? 非公開でも無闇な接触は賄賂扱いされるわよ」
  「食事しただけで?」
  「今、あなたとは参考人扱いとして接触しているから。世の中ケチつけようとすればなんでもケチがつく。私みたいな公務の職なんて特に。警察官ってのは、なった時点で人権とプライベートに大きな制約が課されるの」
  「この会話もかい?」
  「まだ、容疑者扱いじゃないから、大丈夫よ。記録されるとしたら私と会ったという事実だけよ。ここで私の生命反応が無くならない限りは、あなたには何も起こらない」
  「じゃあ、僕がここでスモークだと告白したら?」
  「本気で言ってるの!?」
  「まさか」
  「それだけは、本当に冗談でもやめて。たとえ噓でも私たちには冗談で済まなくなる」
  彼は何か言おうとしたのか口を開いた。
  その瞬間舞の携帯が鳴った。
  「はい、もしもし」舞が端末を耳に当てた瞬間、一瞬で表情が険しくなり、場の空気が張り詰めたようになった。
  舞は、「はい」と何回か繰り返し、二言三言(ふたことみこと)会話を交わすと通話を切った。
  「ごめんなさい。ちょっと用事が入ったからここで失礼させてもらうわ」
  「送ろうか? 警部補」
  「それに関してはお構いなく。いそがしい所、色々とご協力ありがとうございました、何かありましたら警察の方にご連絡いただければ……」
  「また会いたいな。賄賂はともかくとして」
  「ごめんなさい。仕事の関係上他人とは、余計な関係を持たないことにしているの。スケジュールと資料のデータは受け取ったから、それ以外に資料が必要になった時は立ち寄らせてもらいます。急いでいるので。それでは」
  「君は根っからの警官のようだね。それじゃあまた」


8.

急いで車に乗って、直接現場に向かった。一帯はすでに、立ち入り禁止の黄色いテープが巻かれ、事件現場はブルーシートで覆われていた。
  立ち入り禁止のテープの前で見張りをしている制服警官に手帳を見せ、中に入った。
  「遅れました。それで中嶋警部。状況は?」
  「約一時間前に匿名の通報があった。現場に駆けつけるとこの通り。死体は鋭利な刃物で、手、足、首が切断されている。そして遺体の側には、ご丁寧に防水加工が施された手紙が残されていた」
  「手紙は?」
  「もう鑑識の方に回した。画像データを携帯に送るから、内容は自分で確認しろ」
  「露骨な見せしめだ。シャツの破れた部分の隙間から鯉の入れ墨が見えたからカタギではないだろう。見たところヤクザかチンピラと言ったところだ」
  耳で中嶋警部の話の要点を掴みながら、舞の意識は手紙の文面に集中していた。
  手紙の内容は要約すれば、スモークが姿を現さない限り、一般人を見せしめに殺していくという事が書かれていた。
  「面倒くさいことになったわね」
  「仮面の男も調子に乗りすぎたんだ。こっちとしては公務執行妨害以外でしょっぴく理由が出来たという意味では非常にありがたい」
  「でも早めに捕まえないと、民間人に被害者が出る。メディア対応はどうなってるの、誰かわかる人は?」
  「今、上の方で調整中です」
  「なに、心配はいらない。民間に通知せずに被害者が出たら責任問題だ。報道規制は出来ないだろう」
  「それもそうね」
  プレスリリース前に、今回の事件の概要と、手紙の内容を遙香のモバイルに送った。これも付き合いのうちだ。その知らせを送ってからすぐに私の携帯に遙香からの折り返しの電話が来た。

9.

ニュースメディアは夕方、この事件をセンセーショナルに取り上げた。
  何よりも正体不明というのがメディアの気を引いたようだ。
  遙香から定時連絡のように、何度も電話がかかってきた。決まって最初の言葉は「何か追加の情報ない?」だった。そんなに、簡単に情報が集まってたらこっちも苦労はしない。
  「残念ながら、表に出せるのも、オフレコの裏情報もない。それより、自警活動をしていそうな目星の付く奴とかの情報そっちには入ってきてないの」
  「こっちも色々調べてるんだけど、断言できるようなのはないね。本当に情報が無い。みんな当てがないし、誰も知らない。こんな時代なのにね」

***

夜になって、警察署長による緊急会見が行われた。内容は言わずもがなスモークに対して『警察に出頭するように』ということだった。ただ彼が、日本語話者なのかさえ分からないので、極東自治区圏内で話者が一定数いる英語、中国語、韓国語、ベトナム語モンゴル語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、イディッシュ語……などの諸言語に関しては、同内容の情報がメディアを介し発信された。
  私たちも、地域のパトロール強化のために駆り出された。今晩は徹夜だ。スモークが出頭してくる可能性は非常に低い。だから、警察ができる事と言えば、犯罪を未然に防ぐという事だけ。
  素人が犯罪を取り締まろうという態度がふざけている。警察も余計な事に気を使わなければならなくなる。そういったことを奴は考えているのだろうか。と舞は思った。
トロールを終え、本日の勤務を終えた。私の担当場所では特に問題は起こらなかった。時計を見る。あと三十分もすれば朝日が拝める時間だ。
  この時間だと私の行きつけのコーシャデリは閉まっている。大きなパストラミサンドにありつきたかったが、この時間でそれは叶いそうにない。
  今の時間やっている店と言えば、華僑経営の通称『お粥屋』と呼ばれる何でもありの飲食店位だ。
  『お粥屋』には、この時間でも様々な人間がたむろしている。終電を逃したサラリーマンが時間を潰しているかと思えば、夜の仕事を終えた女性たちが酒盛りをやっていたり、これから肉体労働をしに行くブルーカラーがカロリーの高そうな朝食を取っていたり。本当に『お粥屋』というのは名ばかりな飲食店だ。
  私は砂糖の入った豆乳と油條(ヨウティァオ)と呼ばれる揚げパンを頼んだ。テーブル席に着くと、どっと疲労感が押し寄せた。これを食べ終わったら、アパートに戻って、シャワーを浴びて、ベッドで休もうと思った。それくらい舞の集中力は既に低下していた。
  注文の品がやってきても、味わうことなく流し込む感じで食事を済ませ店を後にした。帰りたいという気持ちが強かったのと、場所柄治安が良くはないので、長居をするのも気が引けた。
  車を止めている所まで速足で歩いた。車のキーを開けようとした瞬間、後ろから棒のようなもので思い切り殴られた。急いで体を丸め、受け身の体勢を取る。殴られた部分の痛みも、身体を守ることに意識を集中していたせいか、いつの間にか感じなくなっていた。
  あからさまに打ちのめすための攻撃だった。強姦目的の襲い方ではない。
  メガネが弾き飛ばされた。
  どうにか隙を見て反撃を試みたが、長い間攻撃に晒されていたせいか、だんだん体の力が抜けていき、目の前が真っ暗になった。

10.

身体の痛みで目が覚めた。まだ生きている。と舞は思った。周囲を見渡す。すごくくたびれた部屋だ。何年も放置されていたのか、壁紙は剝がれ、中のモルタルボードまで崩れてコンクリートと鉄筋が露出している。床は黒ずみ隅(すみ)には、わたぼこりが溜まっていた。
  私はというと、コートとジャケット、ズボンが脱がされ下着にワイシャツを羽織っているような状態だった。雑に脱がしたのか、ワイシャツはいたるところが破け、前のボタンがいくつか取れていた。
  すぐに身元が割れるようなものは、すべて取り上げられていた。手練れの犯行だ。私がまだ殺されていないのも、私の生命反応が無くなった時点で、埋め込んであるインプラントから、位置情報などや詳細なデータが、即座に警察に通知されるのを知っているからだろう。
  とはいえ、殺されるのは時間の問題だ。
  「お目覚めですか、警部補?」
  どこからか、くぐもった声が聞こえた。
  「誰?」
  舞は声のする方を向く。
  「なぜ自己紹介する必要がある?」奥の方からアロハシャツにガスマスクという出で立ちの男が現れた。
  「どういうつもり?」
  「まだ元気があるようだな」
  ガスマスク男は舞の顔を思いっきり殴りつけた。
  「悪いがボスの命令なんだ。こっちもビジネスなんでね。あの仮面の糞野郎を始末しない事には商売あがったりだ」
  舞は何も答えなかった。
  「何黙ってるんだよ、なんか言えよ、オラァッ!」
  うるさい奴だ。私は黙っていることにした。こういう奴は黙っていても不満だし、何か喋っても気に喰わない。模範解答はあるのかもしれないが、私にはわからない。
  今はこの現状を打破する考えは思いつかなかった。まだ生きることを諦めたわけでは無いが、かなり不利な状況だった。
  なんてあっけない人生の幕引きだろう。一生懸命生きてきたつもりだったが、結局やれたことなんてほんの一握りだ。こんな時になって、いまさら人生の後悔が浮かぶなんて信じられない。
  ガスマスク男は、時間を気にしているのか、せっかちで時間を待つことが出来ないのか、腕時計をちらちらと繰り返し見ていた。じっと見つめているわけでは無いのでカウントダウンをしているわけではなさそうだ。
  まだ時間に猶予はある。
  縛られた手をほどくことが出来れば助かる確率も上がるのだが、夜遅くまで働いていたのと、繰り返し受けた暴力の痛みのせいで、体力も気力もわかなかった。
  私はガスマスク男をただ、虚ろに眺めるのが精いっぱいだった。
  何度かガスマスク男は携帯で連絡していたようだが、ここ何回かは反応が無くてイライラしてるようだった。時間を置いてまたかけ直しても反応が無いようで、焦っている感じだった。
そう言えば、さっきまで聞こえていた足音や人の気配が無くなったような気がする。意識を保つのが精いっぱいで気づかないだけという訳では無く、本当は雑音が無くなっているのか?   そんなことが頭に浮かぶ。一体何が起こっているのだ
  「なんで出ない!」ガスマスク男は急に一人で激昂し始めた。
  「応援は来ないぞ」ぼそりとつぶやくような男の声がした。
  すぐさまガスマスク男は声のする方に向かって発砲した。「ふざけやがって!」
  スモークは思いっきり間合いを詰める。ガスマスク男の顔面に思いきりパンチを加えた。
  ガスマスクのゴーグルが割れる。
  ガスマスク男は怯んだ。
  スモークはコートのポケットから、市販の催涙スプレーを取り出し、ガスマスク男の割れたゴーグルの部分に思いきり吹きかけた。
  男はもがき喘ぎ、むやみやたらに銃を発砲し始めた。ただ、目の痛みに耐えられないのか数発撃つと手から銃が零れ落ちてしまった。
  スモークは間合いを詰める。
  ガスマスク男は目の痛みに苦しみながらも、近づいてくるスモークに必死に食らいついた。思い切り顔をひっかく。ドミノマスクが外れた。
  その瞬間、スモークは思い切りガスマスク男の顎を殴り上げた。
  男は静かになった。

***

スモークはガスマスク男を縛り付けると、舞の拘束をほどいた。
  「あんたに助けられるとはね。こんなザマだし、自分でも呆れちゃうわ。他の奴等もあなたが?」
  スモークは何も答えなかった。余計なことは一切語らず、優しい言葉もかけてはくれなかった。
  舞はその様子に呆れたのか溜息をつき「あんたも因果な商売してるわね。本当なら、私があなたを捕まえてあげたいけど。こんな状態じゃ逮捕権限もない。それに、メガネが無いから、視界がぼやけてよく見えないのよ。もうすぐ警察がくる。行きなさい、今回だけは見逃してあげる」
  彼は頷くと、彼女の前から立ち去った。空に紛れる煙のように。

第一話 プレリュード・アンド・ノクターンズ 終