【敵か味方か?】The Smoke 第二話【パンティーホース】
Episode2
Behold, he who has repented of his sins
第二話:見よ、自らの罪を悔い改めた者を
1.
男の目には恐怖が浮かんでいた。体は地面に転がされ、縄で縛られ、動くことはできない。口にはコンクリートブロックの破片が詰め込まれ、縄で猿轡(さるぐつわ)をされた口の中で砕けたコンクリート片が欠けた歯と共に、口の端から血の混じる唾液と共にこぼれ落ちていた。
顔は殴られ、血や涙でぐしゃぐしゃになっていた。叫ぶどころか呻くことが精一杯という感じで、時々、喉に入るコンクリート片のせいか咳き込むような嗚咽が聞こえる。
彼にどんな感情が渦巻いているのかは誰も推測することはできない。
男が見つめる先には厚めの生地のパンティーストッキングを被り、その上からサングラスをかけている男が何も言わず経っていた。体格も大柄で、立っているだけで威圧感があった。
「どんな気分だ? 自分で死ぬことも許されず、どうすることもできない恐怖に追い詰められるのは」
縛られた男の目には、何かを訴えるような哀れな視線と共に、目じりから涙の筋が新しくあふれ出ていた。
「おい、おい、何泣いてんだよ……。今更後悔か? じゃあ、なんで、今まで自分のしてきたことに罪悪感と、自責の念にとらわれなかったんだい、ええ?」パンティーストッキングを被った男は、わざとらしそうにゆっくりとした口調でまるで子供を諭すような声でいった。
そして彼は持っていた長(なが)ドスの鞘をぬいた。
長い沈黙。
縛られた男は、何も言わず、だだ、目の前にある刃を見つめていた。顎が震えているのがわかる。
「後悔の念と一緒に苦しんで死ね」
その瞬間パンティーストッキングを被った男は持っていた長ドスを振るった。
血しぶき。
高級そうなダブルのチョークストライプのスーツは返り血に染まっていた。
切られた男は目を見開いて、有り得ないといったような表情をして事切れた。
動かないことを確認すると長ドスについた血を、スーツの内ポケットに入れてあった懐紙で拭う。
彼の名はヒロシ・マツモト。
元イタリア人。
ヤクザグループ『松本会』の会長でもある。
三十年程前にヤクザの娘に嫁いだ際、日本国籍を取ると同時に名前を日本風に変えた。生まれた時の名前のジョルジオ・ニッツォーリは特別なとき以外、もうほとんど名乗らなくなっていた。
彼の人生は変わった。全ては二十年前の大規模テロで妻を失ってから、彼は長ドスを携えパンティーストッキングを被り、妻を死に追いやったものたちに裁きを下すことに決めた。いつからか彼はその姿の為、こう呼ばれることになった。『パンティーホース(Pantyhose)』と。
彼の事を語るものは殆んどいない。彼の姿を見ることになる者は慈悲もなく殺される運命なのだから……。
愛した女はもういない、すべては復讐の為に。
2.
雨が降っていた。
澤瀉和久は路肩に車を止めると、とある古ぼけた雑居ビルに入っていった。入口には日本語で『シャムエル・ラースロ探偵事務所』の文字に加え、上品な縦長のアルファベット書体で “Sámuel László Detective Agency” という文字が書いてあった。
「やあ、探偵(シェイマス)」と和久は言った。
視線の先には初老というには少し歳を取りすぎた愛想のない白人の男が机に座っていた。
「こんな所に何の用です? 社長」と違和感のないアクセントで話しかけた。彼は移民二世であり、小さいころから日本語を聴き慣れているというのもあるだろう。
「社長はやめてくれ」
「あなたは私をシェイマスと呼んだ。それなら私も社長と呼んで差支えないでしょう」
「シェイマスと呼べと言ったのはあなたじゃないですか。ラースロさん」和久は溜息をついてから「それなら、日本語でそのまま〝探偵〟と読んであげましょうか?」と言った。
「日本語で探偵というのは呼び名としてはちょっと違和感あると思いますよ。それよりも、こんな雨の中、何の用ですか? 雨宿りにしては、あまり服がぬれてないようですし、ただ、ぶらりと寄り道しに来たというわけでもなさそうですね」
「ああ、資料を見せていただきたくて」
「連絡をくれれば、いつでもスキャンしたのを送信するのに」
「実際に尋ねた方が、普段なら気にも留めない資料を見つけることだってできる」
「面白いことを言いますね、社長。で、どんな資料をご所望で?」
「パンティーホース」
一瞬、沈黙があった後、
「いつごろから、必要ですか?」
「あるもの全部に目を通させてほしい」
「わかりました。こちらへ」
そうやって奥の部屋に通された。そこには見出しのついたいくつものスクラップブックやマニラフォルダーがあり、引き籠るにはもってこいの部屋だった。仮にここにある全部の資料を読もうとすれば数日はかかってしまうだろう。
「この棚の全部が、関係する資料です」そう言って、シェイマス・ラースロは和久を棚の前に連れてきた。続けざまに「気を付けた方がいいですよ、どこかの誰かと違って現行法を守り限界ぎりぎりまで、法に触れないように活動しているわけじゃないですよ、彼は手段を選びませんから」
彼は軽く笑って「そうだな」
「必要なら、欲しいものを言ってくれれば、あとでスキャンしたものをお送りしますよ」
「頼む」
「社長のお願いですから。時間がかかるようでしたら、コーヒーでもどうですか?」
「頂くよ」
***
自分の部屋に戻ってからも和久はパンティーホースについて調べていた。シェイマス・ラースロからスキャンしてもらったファイルのコピーから、確実に関わりのありそうなものをピックアップしていく。
しかし、何よりも表立った犠牲者が少なすぎた。かかわったと思われる事件の大半が行方不明としてカウントされている。死体の見つかっている事件は一部だけで、見せしめ的な意味の強いものだった。いわゆる、『裏社会の消し方』という奴だ。
犠牲者は一般人も有名人も関係ないようだった。被害者に関して言えるとしたら、不運にも恨みを買ってしまったのだろう。としか言いようのないくらい情報が少ない。
彼はどのような意図で人を襲っているのか、まずはそれを知る必要があった。
フェドーラ。
スーツ。
ネクタイ。
ドミノマスク。
それらを身に着け、夜の街をパトロールする。情報が無いようなものを調べるには結局、犯罪を未然に防ぐという地道な活動をするしかない。時間はかかるが、それ以外に方法はない
街の皆はその姿をスモークと呼ぶようになった。それに呼応するようにその名を自分から名乗る様になった。スモーク。いい名前だ。
3.
松本会は完全実力主義のヤクザグループだった。
忠誠も、仁義も上下関係も必要ない。ただ、それなりの教養と何か国語か話せるだけの語学力、裏社会でも立ち回れる粗暴さ。教養とタフさを高いレベルで維持している必要があるだけだ。
ヒロシ・マツモトは元からヤクザだったわけではない。親類が極東自治区の政治の腐敗の匂いを嗅ぎ付け、その隙間を就いたビジネスを始め、その手伝いでやってきたという意味ではあまりいい出自(しゅつじ)ではないが、彼自身はさほど生まれを気にする環境で育ったわけではなかった。まだその頃はジョルジオと呼ばれていた。
彼が入国したころは運悪く、入国のハードルを上げられ就労ビザが下りず、学生ビザでどうにか自治区内の大学に入学許可が下り入国することになった。学生ビザとなると、入管に定期的な出席日数と授業単位の記録を提出させられ、就労時間もコントロールされていたが、入国してしまえば多少の融通は利いた。
それに彼自身、勉強する事に対しては苦ではなかった、極東自治区の高等教育機関は他言語政策がとられていた為、複数の言語で授業は受けられたし日本語が出来ない事によるドロップアウトも免れた。
大学で学ぶと合間に親類の経営するピザ屋を拠点に、あまり綺麗とは言えない裏社会のビジネスにも手を染めはじめた。大学在学中の四年間の間に、どうにか日常会話に必要な日本語を覚え、ある程度の漢字の読み書きは出来るようになっていた。
***
大学卒業が決まったころ、学生ビザから就労ビザの切り替えが無理そうだと分かった、しかし、運は彼を見捨てなかった。ちょうどその頃ある一人の女性と知り合い、恋に落ち、結婚をした。彼は日本国籍を手に入れた。ただ、普通と違っていたのは、結婚相手がヤクザの組織の 会長の娘ということくらいだ。
彼は、名前を松本姓に変え、表向きには日系人風のヒロシ・マツモトと名乗る様になった。最初の頃は申請書類用の松本ジョルジオや、元々のニッツオーリ姓も使ってはいたが、最終的に今の名前で落ち着いた。
妻の父親には、一悶着あったものの最終的に気に入られたが、煙たがるものもいないわけではなかった。
松本会は仁義や義理人情、儀式的な事よりもビジネスに特化した進歩的なヤクザ組織だった。別の言い方をすれば、ヤクザ稼業から出発し、時代に対応し組織健全化させた組織ともいえる。
暴力の影が無いわけではないが、他と比べたら生易しい。
ヒロシ・マツモトは、更に日本の裏社会の仁義とケジメや排他的なルールを合理化していった。とはいえ、彼は外人という部外者故に正攻法ではトップには立つことはできなかった。しかしそれが皮肉にも組織の矛盾点と弱点を誰よりも早く見つけることとなった。
彼を含め、まだ外人には居場所がほとんどなかった。学歴や能力のある若者たちが溢れていたが、みなその能力を持て余していた。そいつらを一気に引き抜き彼らに、相応の報酬を与え、更に、こちらに寝返った日本人も厚遇した。
今まで、理不尽にしいたげられた故、組織としても情より、実利を優先させた。結果さえ出せばどんな方法を使っても構わない。能力さえあれば上を敬う必要はない。清潔な服装をし、自分の仕事をちゃんとこなし、時間通りに職場に現れ、時間通りに帰れば十分だった。
結果実力のある者はさらに先鋭化し。下の者のモチベーションを結果的に高めることとなった。
さらに、フロント企業を健全化し、独立した子会社にし、松本会の余剰人員を割り振った。
今では、堅気に染まりヤクザのフロント企業であったことを覚えている奴の方が少数なくらいだ。
それに対して適切な対応が出来なかったヤクザ組織は、パワーバランスを崩したちまち内部崩壊していった。生き残った組織も、松本会のスタイルを多かれ少なかれ踏襲(とうしゅう)することになった。
その姿はどこかクーデターめいていた。
彼は目立ちすぎた。それゆえに、新たな争いの火種を生んでしまった。
4.
その日は、前触れもなくやってきた。
極東自治区という場所は、元々が問題を抱えやすい場所だった。第二次大戦中に移民の為の特区として生まれた場であり、少なからず人種対立や、新しく流入した移民とのトラブルを抱えていた。
そしてそれが、移民、日本人、混血児、それぞれが持っていた様々な要因――家庭の崩壊や貧困、差別などが重なり、それぞれの不満が連鎖的に爆発しテロという形で現れた。
日本人が移民を憎み、移民が外国人を憎む。
長期的に続く破壊活動の悪化により極東自治区周辺は封鎖され、内戦状態となった。最終的には住民同士が疑心暗鬼に陥り敵も味方も関係なく殺し合いが始まってしまった。
この状況にヒロシ・マツモトにとっても無関係という訳にはいかなかった。この混乱に乗じてヤクザたちも彼の前に牙をむいた。
彼らにとってヒロシ・マツモトはヤクザ内部の秩序を崩壊させた戦犯だった。
テロの勢いも落ち着き始め外出も容易になった頃、妻と二人で歩いている時だった。一人の若い男が突然目の前に現れ、銃を向けた。
突然「ダメ!」と叫ぶと彼の妻は、ヒロシ・マツモトを押しのけた。
銃声
薬莢が、ヒロシ・マツモトの足元に転げ落ちた。
そして、妻が倒れた。
彼女の体を中心に血だまりが広がる。
僅か数十秒のうちの出来事だか、彼にとっては何が起こったか判断するに充分な時間だった。
彼は激高した。たとえ、誰かの指示によって操られた鉄砲玉とわかっていてもわき上がる感情は押さえられなかった。
すぐさま、取り押さえ、顔の形がわからなくなるくらいまで殴り、撃ち殺した。
目の前で愛する妻を殺された。
お腹の中には生まれてくるはずだった子供もいた。
その日から、彼にとっての全てが過去に変わった。
***
彼に反発するものが存在する以上に、彼を慕うものも多かった。彼らに匿われながら、彼は生き延びた。その後もヤクザの会長としての席は残っているものの、表向きはヤクザ稼業から手を引き、静かに暮らしていた。ただ、彼の中にはは執着も生まれていた。理不尽な悪は根本から叩き直さないといけない。こうなってしまった原因を元から断たせる。元々持っている罪を芽を排除しなければいけない。そういった思想が狂気のように彼にまとわりついた
ヒロシ・マツモトはあの日から、人生のすべてを妻の復讐に捧ぐと決めた。もはや守るものも失うもの何もない。それが彼にとって今までしてきたことへの贖(あがな)いだった。彼の孤独な戦いが始まった。
5.
彼が、パンティーストッキングを覆面に使った理由は、安価であり、手に入りやすい量産品であり、処分も簡単というだけで深い理由はなかった。
パンティーストッキングを被った男を初めて目にした人間はチンピラ同然と舐めてかかる。それは気付かぬ利点だった。自分がバカにして弱いと思っていたものに、徹底して痛めつけられると、後悔の念どころか絶望感が半端なく感じるらしい。最終的に相手に恐怖を植え付ける。ヒロシ・マツモトは復讐対象を予告無しに捕らえると、
監禁し。
追いつめ。
限界までいたぶり。
自分のしてきたことを自覚させ。
後悔させ。
心を入れ替えたところで嬲(なぶ)り殺した。
それが慈悲というものだ。最後まで抗う奴もいなかった。
中には極限状態にまで追い詰められ精神に異常をきたしてしまったものもいたが、結局死んでしまうのだから関係なかった。男も女も関係ない、すべては背景にある根本の思想が腐っているのだ。
しばらくすると犯罪の抑止力にもなっていた。得体の知れない何かに『処分』されているのを皆肌で感じていた。死体は、松本会の所有する系列会社の化学プラント内で処分し骨のさえ残らないようにすることが出来た。
すべて一人でやった。
こういうのは、組織化すると管理できなくなるし、裏切り者が必ず出る。ヒロシ・マツモトはそれを身をもって知っていた。これは復讐であり縄張り争いでもあった。強い奴がシマを管理し、そいつが君臨している間は誰も手を付けられない。そしてパンティーホースという実在さえ分からない存在が管理しているとなれば、それだけで事は複雑化する。
誰がボスかわからない。人種や育ちに関係なく誰もが度の過ぎた目立つ行動をすれば死ぬのだ。見えない恐怖に誰もが疑心暗鬼になっていた。
それでも、完璧な行動は出来なかった。ターゲットを捕まえ損ねたこともあるし、現場を見られたこともあった。最終的に噂は尾を引いて、パンティーストッキングを被った怪人。通称パンティーホースの存在がまことしやかに語られるようになった。
パンティーホースが白昼のもとに晒されるのは得策ではなかった、妥協点としてガードが固くて拉致出来なさそうな復讐対象は、車に爆薬を仕込んで護衛ものとも爆殺したり、遠くから狙撃したり、毒を盛って暗殺したりと見せしめ的な処分を彼は選んだ。
利害関係が生まれる限り、悪は無くなることはない。問題が無くなれば、どこからかまた誰かが新しい問題を持ってくる。終わりのない螺旋(らせん)のように。
6.
ビルの屋上
今夜もまた、パンティーホースが一人の男を裁いていた。
ただ、いつもと違うのは、珍しい来客が現れたことだけ。
「お前だな、パンティーストッキングを被って色々やっているのは」仮面の男が言った。
沈黙
「そういう貴様は何者だ?」
「スモーク。と人は皆、私をこう呼ぶ。そして私もその名を名乗っている」
それを聞いたパンティーホースは、けたたましい笑い声をあげた。
「その人を離せ」
掴んでいた、男の体を引き離した。スモークが保護しようとした瞬間。
胸にしまっていた銃で頭を打ちぬいた。
「なんで殺した!」
「放せとは聞いたが、銃を撃つなとは聞いてない」
そういうとこらえきれなくなったのか大声で笑いだした。
スモークは、構えの姿勢を取った。
「おいおい、勘違いしていないか? 俺はお前の敵でも味方でも何でもない。ただの過去の亡霊だ」とパンティーホース「俺はお前を殺す理由はない。だから何もしない。それじゃご不満か?」
「一体何様のつもりだ?」スモークは言った
「さあな? 俺は、この街の犯罪を管理するだけだ。手段は問わない。お前みたいに正義のヒーローごっこをするつもりはない」
「脅しと殺人による支配か、そんな事をしていてもいつかは限界が来る」
「そんなの俺が知ったことか。その時はその時だ」鞘から長ドスを抜くと、パンティーホースは「人間強いものが弱いものを管理する。何事も自由にやらせたらただの混沌があるだけだ。世の中にはなルールって奴が必要だ」と言った。
長ドスの刃先がスモークの首の皮、数ミリのところで止まっていた。下手に動けば、大怪我は免れない。
「狂気ってのは、誰も気にしない様な些細な執着の成れの果てだ。俺の邪魔をするようだったら容赦はしない。良く考えることだな」それだけつぶやくと、長ドスの刃を、鞘にしまい。パンティーホースは堂々と屋上の入り口から下へ降りて行った。
足音が響く。
そして小さくなる。
死体の転がるビルの屋上で、スモークはそこに立っていることしかできなかった。
7.
その日の夜は三日月が空に浮かんでいた。
人気のない寺の墓地の一区画に男がいた。花束と手桶をもって目の前には松本家とかかれた墓石。ここに彼の妻が眠っている。
彼は水の入った手桶桶を墓石の脇に置き、花束を花立てに差し、柄杓で墓石の上に水をかけ、線香に火を点け供え手を合わせた。
墓石の側面の墓誌には妻の名と赤く塗られた自分の名前が彫られていた。
彼の名はヒロシ・マツモト。またの名をパンティーホース。
愛した女は一人だけ……。