不安とか、ネタ切れとかそういったネガティブなことについて

毎度のことながらネタには詰まる。ネタに詰まると脳味噌が腫れているような感覚(脳に痛覚はないし腫れているかなんてわからないんだけどさ)があって、血液の通りが悪いように感じる。この感覚は、アウトプットの歯車が動き出さない限り改善されることはない。

詰まっている感覚が『ストン』と無くならないかなぁと思うんだけど、なかなか取れないんだよね。時間だけが過ぎていくので、精神衛生上良くはない。上手く歯車が回るまで、体調を整えリラックス出来るところまで持っていくしかないのが現実だ。

基本自分はネガティブ思考である。基本的に最悪の状態をまず第一に考える。ただ、吹っ切れた時には人目をはばからず狂ったようにテンションを上げるくらいで、基本どこかに籠もって、考え事をしている方が落ち着く。でも、寂しがりやなので時折、人に会って話をしないと精神的に参る。そのくせ集団になると、他人の目や評価が気になって落ち着かないという面倒くさい性格である。大人なので上辺だけの人付き合いもできるが、それはそれで消耗するのである。

とはいえ、最近は腹をくくって、何を言われても構わないから好き勝手やろうという気持ちではいる。いるんだけど、定期的に一人にならないと調子が悪くなる。最近、ストレスが溜まるとリアルに胃痛になり、更に下痢をする、この歳になってリアルにストレスが胃に来るというのを覚えてしまい、こういうことがフィクションではなく現実にあるのかと感心しきりで、よく今まで生きてこれたなと思うばかりである。

そういいながらも、アラサー日本男子のさえない毎日は一日一日、確実に過ぎていくのである。これからどうなるんだろう? そんな不安を抱えながら、とりあえず現状でやりくりするしか道はないのである。

創作の話

一応これでも創作同人屋の端くれではある。だから色々思うことはある。

結局のところ、読者のためには書いているんだけど、それ以上に自分の表現も大切にしたい。もちろん意見は素直に聞いて、反映させられるところはさせる。ただ読者に寄りすぎても、作者のひとりよがりをやるのもどちらも宜しくはないというのは自分なりに理解はしているつもりではある。

ただ、創作を続けているということはそれなりに自己顕示欲もあるわけで、本を読んでもらいたいし、買ってもらいたい。さすがに同人サークルとしては印刷費をドブに捨てるんじゃなくて、取り返したいというのが本音なわけさ。やっぱりさ。

この間、一緒に食事した高柳総一朗さん(彼は必殺断罪人という、ファンタジー世界を舞台に必殺シリーズをオマージュした作品を作っている)とお話した時も、そんな話になって、読者は作者の名前をあまり見ないねとか、読まれたからって次作につながるとは限らないねとか、俺達は商業目指しても、なんというかライトノベルのジャンルとしてはかなり特殊過ぎて、商業で出せないよね。HAHAHA!! 的な話をしたばかり(両方とも自分の経験だから生々しかった)。

俺自身は、90年代から2000年代初頭にかけての多感な十代の時期にシナリオ重視のKeyの『Kanon』や『AIR』に代表される泣きゲや、同人でブームが巻き起こった『月姫』やらを直にやって、おまけに当時はTRPG系のファンタジーブームが終焉、一昔前のブームである学園異能+萌えラブコメがでてくるまでつかの間の混乱期で、ラノベ界は何でもありだった時代だった。おかげで物語の力をこれでもかと目の前で見せつけられたせいもあり、そういったものにダイレクトに影響されることになったわけで、当時としては最先端で、どれもこれも当時のテンプレから逸脱したファッキンクールなオリジナリティ高いものだったわけさ。

そういう奴が、向かうとしたら流行の後追いじゃなくて自分らしい独自性の高い創作方面に向かうのは自明の理というか何というかって感じなわけで。おまけに、それぞれの作家が影響を受けた先行作品とか語ってくれてたおかげで、文学、エンタメ、ジャンルを問わず体系的な読書もできたわけでそういう意味では運には恵まれたのかもしれない。

俺もあんなガツンとくる衝撃の作品を作りたいという気持ちを燻らせながら火がつくのを待っている。というか、そうでありたいなと思う今日この頃。

荷物の話

個人的なジンクスと言うかなんというか、自分の周囲だけかもしれないけど、極端に荷物の多い人(旅行用の大きめのリュックやカバンをパンパンにするレベル)は、融通がきかなかったり、仕事とかができない人が多い。もちろん個人差や例外はあるんだけど、傾向として。

インプット時は逆に荷物や資料をヤバいくらい貯めこむ人は逆にできる人だと思うんだけど、逆にアウトプット時に置いても、大量の資料や荷物を持ってくる人は高確率で段取りが悪かったり、説明下手だったり、考えがまとまってなかったり、変な執着をしていたり、本筋とは別のところにリソースを割いている気がする。程度問題ではあるんだけど。

自分もオタクなので、『オタクな荷物あるある』で必要ないのに、もしかしたらどこかで必要になるかもしれないとか思って、色々バッグに突っ込んじゃう傾向があったんだけど、最近は現地調達でどうにかしてるので、行きだけはカバンの中身はぺったんこにしている。

自分も同人イベントなんかでキャリーカートに余分に在庫詰め込んで、そのくせ売れなくて悲惨な目にあったり、その傾向がないわけじゃないので気をつけているんだけど、やってしまうこともないわけではない。翌日の体力考えると、オタクのカバンには夢を突っ込んでナンボとも言ってられなくなってきた。

人前の発表、プレゼン、授業、説明、表現……etc.の時は絶対的に荷物が少ない方がいいのは経験上確かだ。大量の荷物や資料というのは、結果的に余計な方向に気が向いてしまうことになって要点が絞れない。大切なのは、限られたスペースでどれだけ簡潔にまとめられるかというのが様々な物事に対して評価される部分なのだと思う。

今思えば、学生の頃頭もよくて、何でもできるタイプのリア充たちのカバンがジャストサイズかそれ以下でぺったんこだったのは、何もしていないからじゃなくて、必要な取捨選択が出来ていたんだろうなと、今更思ったりする。リア充たちはこちらが思う以上に意識て無意識ていてあれ最適な身の処し方をする。

旅行なんかでも、色々なものを詰め込んでいる人より、必要最低限のレベルで手ぶらに近いくらいなんにも持っていかない人のほうが楽しく旅ができると思う(人気のない奥地にいかない限りコンビニくらいあるしね)。

どちらかと言うと、周到な準備をするよりも、足りなくなったり、不足していても今あるものや身近なもので代用して臨機応変にリカバーする能力のほうが、現代社会を生き抜くのに大切なのかもしれない。

ここ数年、仕事柄かも知れないが、スケジュールやら進度表やらを見ながら先を読んで色々な段取りをするようになると、情報を集めてから、思い切り良く、不要なものを全部捨てて必要な物だけを抽出する方が早いと思うようになった。大半のことは必要なはずのものを捨てても、後で、必要な物をどこからか拾ってくればどうにかなる。

程度問題ではあるけど、自分は持ち運ぶべき荷物は少ないほうがいいと考えている。

自分で言うのもなんですが、どうしてオタクってカバンに荷物を詰め込んじゃうんでしょうね?

コミケ88ありがとうございました

コミケ88に参加した皆様お疲れ様でした。MOZA MOZAのスペースに足を運んでいただいた方は本当にありがとうございます。私は一日目サークル参加し、三日目一般参加していました。今年はそれほど過酷で無く過ごしやすかったです。

今回のうちのスペースはこんなかんじでした。


売上の面では今ひとつでした。ニッチなジャンルて活動しているというのもあるのですが、読者の興味を惹けていないというのが、売り子をしていてひしひしと感じられて、何かいい方法があるんじゃないかと、自問自答しながら次回のアプローチを考えています。
■頒布数
・The Smoke
 Book 1: 8冊
 Book 2: 11冊
・僕はたいした理由もなく君の手を握る: 2冊
・見知らぬ者たちの夜: 2冊
・守護者たち: 1冊
・長い夜に降る雪: 1冊

合計 25冊
結果は前回の約半分ですね。前回が奇跡だったのか、夏の文芸島は冬より人が来ないのか、それともやっぱりシリーズ物の二巻目は動きが悪くなるのか、原因がつかめないので難しいです。最初期からくらべればよくやっているとは思いますけど、こっちの力不足なのか環境要因なのかで、取るべきアプローチが変わってくるので、研究していきたい。さすがにサークルとしては、印刷費ドブに捨てるくらいなら、頒布して取り戻したいじゃないですか。

The Smokeの二巻目はあまりパッとしない印象。またアプローチを変えていくしかないのかもしれませんね。あとは文芸島に人を呼びこむ流れみたいのができればいいんでしょうけど。こっちはできることをコツコツやっていこうと思います。

明日のコミケ

MOZA MOZAは、金曜日 東地区“ヘ”ブロック-30b です。
あいかわらず、ぼっちで売り子しています。

うちのサークルは、コミケ合わせに新刊を作るシステムではないので、五月につくったThe Smoke: Book 2コミケ初売りとして持っていきます。それ以外にも既刊を持っていきますので是非、サークルスペースにお立ち寄りを。スペースに立ち寄って挨拶だけというのも大歓迎です。明日来られる方は宜しくお願いします。

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お品書きは以下の画像の通り。ぜひ時間のある方、一日目にコミケに来られる方はMOZA MOZAにお立ち寄り下さい。



イントロダクションとセットアップ

人に教える仕事と、創作という趣味をしていると自主的と言うか主体的に考えられない人はどこかで限界が来るなというのが、個人的な印象だ。とはいえ、自主性に任せすぎてもコントロール不能になったり、結果的にエゴまみれになる危険性もはらんでいるわけだが、それについては別の機会に。

どんなことであっても、導入(イントロダクション)と準備(セットアップ)がうまくいかないと長期的にやっていくには結構辛いというのが、自分なりの立場だ。

イントロダクションは、運にも左右されて、相性の悪い人の上についてしまったり、もしくは教えてくれるような人はいなかったという場合もあって、外部要因に左右されちゃう場合があるので、無くてもどうにかなるかもしれないけれど、中途半端な興味レベルの人がモチベーションを保つのにはあったほうがいいんだけど、あることに越したことはないが、無いのはTVゲームで言うハードモードでスタートみたいなもんなので、サバイブは可能ってところではある。

でもセットアップは自主性と言い換えてもいいので、これだけは無いとつらい。受け身は、身を滅ぼします。結局与えられた情報だけで色々こなそうとするのは限界がありますし、前もって、始める前にどんな方法でもいいので基本的な情報を調べられる状況を作っておくっていうのはほんとうに必要だと思います。一番いいのは、まずは調べることから初めて、興味が持ててから行動に移すこと。

それと、わからないことを他人に恥ずかしげもなく聞ける状態に持って行くこと。最初のうちは死ぬほど心折れます。最初のうちは、だれでもアプローチに難があるので失敗します。学習的無力感プンプンです、でも一回成功するだけで、学習的無力感はブッ飛ンでくれるので、しんどくならない程度に色々やっておくといいと思います。

質問をすると、怒り出したり、はぐらかすタイプの人は信用しないでいいです。自信がないかあまり能力のない人です。ちゃんとしたスキルある人は基礎的なことでも、ちゃんと答えてくれます。ただ堂々としすぎている人は、それっぽくハッタリかけているひともいるので、判断のつかないうちはニュートラルに対応している人の話を中心に聞くといいです。

自分の場合だと、人に聞くのが苦手だし、誰が知っているかもわからないような状況にも陥ることが多々あるので、文字資料を現時点で、時間と予算の許す限り集めたりでごまかすことも多いです。ただ聞ける環境にある場合は、くだらないことでも質問しちゃうほうです。でもそういう機会の時って、知りたいことが思い出せない事もあってもどかしいこともあったりで、なかなか思うようには行かないこともあるんだけどね。

多分どんなことでも一緒だと思うんだけど、色々なものを比較検討して『疑問に思う感性』と、『自主的な気付き』が出来るようになれば、その人は今は下手くそでも、その分野で平均以上は行けます。それが出来るということは、それなりに興味を持っているってことですし、モチベーションを保てるってことなんだと思う。

黒板とホワイトボード

講師業という仕事柄チョークとホワイトボード・マーカーはよく使う。個人的にはチョークなら日本理化学工業のダストレスチョーク、ホワイトボード・マーカーなら Pilot ボードマスターを愛用している(インクのリフィルがあって大助かりです)。

自分の働いたことのある職場の一つは、古い進学予備校を居抜きで使っていたために、いまだに黒板とチョークを使っているし、また別の職場は、最初からホワイトボードが備え付けられていた。そんな感じで教室にどっちが設置されているかは場所によるとしか言いようがないのだけれど、どっちを使うにしても、道具のこだわりが出てくる。

毎日のように使うから、自分はチョーク昔ながらの軽くて粉が多いチョークは使えないし、炭酸カルシウム製のチョークがなければポケットマネーで買うレベルだ。ホワイトボードのマーカーもそこそこの太さでが書けないものは授業では使わない。

だが講師としては、チョークはダストレスとかの炭酸カルシウムで粒子の重いチョークを使っても、筆記量が多いと、どんなに気をつけてもシャレにならないくらい服と靴が汚れる。チョークの粉は拭いても落ちないし、水を含ませた布で拭くと粉が固着する。本当に最悪なのだ。

黒板消しで消しても粉が残るし、あの掃除機のバキュームを改造したようなクリーナをかけても、黒板消しは綺麗にならない。おまけに、エアコンのフィルターは目詰りするし、電気製品の寿命も短くなるのであまり嬉しくはない。授業ごとに手を洗う必要があるし、そういう点ではホワイトボードのほうが大助かりである。

でも、授業運営を考えるとチョークの方がありがたかったりする。チョークは書くときにリズムを作れて、授業のテンポを調整しやすい。そしてチョークは硬いので安定するしきれいな字が書ける。チョークの長さでだいたいの書ける文字の量が把握できるのもいい。講師業をやったことがない人にはわからないかもしれないが。チョークとマーカーでは授業のリズムが違ってしまうのだ。

マーカーは摩擦がなくて、サラサラとかけてしまう。そのため線の強弱もつけづらいし、太さも限度がある。おまけに気をつけないと摩擦が少ないので字が上手にかけない。どっちにしても一長一短がある。悲しいことに両方の美点をカバーする筆記具はまだ生まれていない。正直ブラックボードに、チョークみたいな硬さのペンで、文字の点画がはっきりつけられて、ホワイトボードのようにカスが少ない筆記具があったら最高なんだけど、そうはうまくはいかない。

公教育の場合、いまだに黒板が多いのは、コストだけでなく、生徒への視認性可読性のことを考えて、基本暗緑色もしくは濃紺の黒板に白いチョークで書く事が多いと思う。実際チョークのほうがバリアフリーだ小学校から大学まで基本は黒板だ。大教室であればあるほど、見やすさの黒板である必要性は高まってくる。チョークじゃないと文字の点画もはっきりしないし初等教育だけに限定して言えば黒板は必須だ。(いまだに大手の進学予備校が黒板なのも学生を第一優先にしているからだろう)

大人相手の教育産業なら近年はホワイトボードが優勢だと思う、理系だと、数学科を除いて(数学科はチョーク愛好家が多いらしい)大体の所はホワイトボードになってきていると思うし(機械や実験などをするならなおさら)、文系の教育産業でも美術関連を扱うところでなければやっぱりホワイトボードになるんじゃないだろうか?

ただ、考え事をしながらの時は、チョークがありがたい。仮に黒板とホワイトボードの部屋どちらかに引きこもっていいと言われたら黒板のある部屋に引きこもるとおもう。深い思索にはチョークと黒板のほうが合っていると思うのだ。ただ、現実的にはホワイトボートとマーカーは服が粉で汚れ無くて非常にありがたい。ああ、なんというジレンマだろう。

年を取ることについて

人間はなんでそこまで若さに執着するのだろう。

自分なんかは年を取るのは当たり前なんだから、それに見合った振る舞いをしたいと思う。十代から二十代前半にかけて容姿を褒められることもチヤホヤされることも殆どなかったので、そこまで、若さに関して思うことはあまりないし、執着もしていない。逆に最近になってからのほうが、思春期の頃に比べ外見的にはマトモな扱いを受けているので、過去の事はどうでもいいと思っているってのもある。

逆に最近になって、社会人生活を送っている同級生なんかどこかでぱったり再開して、挨拶を交わすと、顔が激変していたりしてびっくりする(もちろんその逆もある)。ハードな仕事をしている人や、煙草を吸っている人なんかは、結構ダイレクトに老けたようにみえる、それに男性の場合年をとって下っ腹が出てくると貫禄のようなものさえ感じられる。

他人がどんな生活をしていようが知ったこっちゃないのだが、エネルギッシュな頃を知っている身としては同情を禁じ得ない。とはいっても、自分も他人が見れば、年齢相応には老けて見られているんだろう。ただ、思うのは見た目は意外とモノを言うというのも確かだ。端々にその人が歩んだ片鱗が見えてくる。

そんなことを言ってしまうと、俺もこれを読んだ誰かに反感持たれて、「他人のことを言えた口か、てめえも間の抜けた顔してるじゃねえか」と怒られそうなので、この話はココらへんで。もちろん若さを大切にするのは大事なことだと思う。でも、自分は若さだけに執着することよりも、その年齢に似合った振る舞いが出来る方がはるかにスマートで格好良いと思うんだけど、世の中の人は違うのかな?

ピンと来る感覚

ごく稀に、『ピンと来る』としか表現しようのない感覚を覚えることがある。別の言い方をすれば『運命感じちゃった』ってヤツである。なんとなく、雰囲気で『うまくいきそう』とか、もしくは、一発で同じように『これは駄目だ』と思うのもピンと来る感覚だ。

大体、人生の節目だったり、何かしらのきっかけみたいなのがあったりはする。とはいっても、うまくいきそうだと思っても踏み出せなかったり、動けなかったりすることもある。少しでも生きていれば何かしらのしがらみは生まれてしまうのだから、仕方がないといえば仕方がないとも言える。

ただ、思うのは、自分から主体的に動いてないと、なかなかその感覚に出会えない。待っていても運命なんかは変わらない。恥をかいたり、格好悪いことをやったり、体を張ってみたり。多少変人に思われても、自分がしんどくならないようにして生きていくのが一番だと懐います。結局最後に頼れるのは自分自身ではあるのだから。

理性で動いてきた人はたまには周りを振りきって、感情の赴くまま、本能のままにに動いてみたり、逆に感情で動いてきた人は、理屈で動いてみたりすると、新たな発見があるかもしれない。なにか新しいことを手に入れたいと思うなら行動を変えてみる。これが案外効果があったりする。

もしかしたら、『ピンと来る』感覚って、結局のところ歳を取って、無意識的に経験則の感度が上がっているだけなのかもしれない。まあ、それは当人がどう感じるかだけどね。

万年筆と紙の話

同人小説なんかを作っているので、下書き原稿の時には大量に字を書く。PCだと、目が途中で疲れてディスプレイを見るのも辛くなってしまう。だから、時間がない時以外はとりあえず万年筆を握る。ボールペンだと、筆圧が万年筆よりちょっと必要になってくるので長時間の筆記に耐えられない。

何故かわからないが、自分はペンで手書きの時は横書きだ。これが筆だったら、筆の運びの関係上縦書き以外ありえないんだけれども、やっぱりペンは西洋の物のせいか万年筆を使うときは横書きなのだ。

紙は、安くて量があり、そこそこペンの滑りがいいリーガルパッドを使っているのだが、それでも、微妙な相性があるので、色々なメーカーを試している。でもいまだにしっくり来るものがない。いいな、と思っても微妙な不満が出てくる。高ければ書き心地がいいかといえばそうではない、安物でもパフォーマンスのいいものもあれば値段同様の質もあるし。ペンに相性のいい紙を見つけるのは至難の業である。

日本人なんだから原稿用紙を使えばいいじゃないかという声もあるが、原稿用紙は一枚の紙に入れられる文字数は少ないし、マスに文字 “埋める” というのが苦痛でしょうがない。仕事の作文指導なら問題ないがプライベートでものを書くなら、やはり少しでもストレスの無い環境が優先される。趣味は楽しんでナンボの世界である。

理想としては、ホワイトボードにペンを走らせるレベルより僅かにざらついた書き心地があれば嬉しいのだが、紙なのでそうは行かない。つるつるし過ぎると文字の点画がぼやけて……ああ、難しい!!。

個人的に、自分が理想とする紙は。

  • よく滑る。
  • にじみが少ない。
  • なるべく罫線の幅が広い物(1cm以上)
といったところだ。紙質もあまり上質じゃない方がいい。そのほうが、さっさとゴミ箱に捨てやすいし、後腐れがなくていい。手紙を書く時は多少厚めで透かしなどが入ったものの方が、こっちとしても、ちゃんとしたものを書いている気にもなるのだが、下書き原稿は違う。紙を無駄にするくらい、どうでもいいことを書いて、そこからブラッシュアップしてPCに打ち込むのだ。

ペンで文章を書くというのは、どこか肉体を使っている感じがあって、タイプする時よりも脳味噌と指がつながっている感じがあるのだ。とはいっても時間がないときは直にタイプしちゃうんだけどね。

パンナ・コッタはどこへ消えた?

バブル期に流行ったデザート(私は甘味をスイーツというのは品のない感じがしていまだに抵抗感がある)でナタ・デ・ココとティラミスは、そこらのコンビニで買えるレベルには生き残っている。とりあえず、久しぶりに食べてみようか、と思えば食べられる。しかしパンナ・コッタは全然生き残っていない。無論シャレオツなイタリア料理屋にいけばまだ食べられるのだろうが、一般人が普通にそこらで買い求められるものではなくなった。自分が最後に食べたのは九十年代前半から中盤にかけてで小学校低学年の頃だと思う。

パンナ・コッタとはいかなるデザートかといえばPanna cotta(伊語:煮た生クリーム)の文字のごとく。生クリームと牛乳、砂糖を火にかけゼラチンで固めたモノ。簡単に言ってしまえば『生クリームのババロアババロアも今は殆ど聞かなくなってしまった!)・ラム酒風味のカラメルシロップがけ』といったところか?

当時はトレンディなイタリアンデザートだったのである。その頃の日本人は主体性なんて無くて、共産主義者もびっくりなくらい、みんな右向け右に流行を追いかけ、みんなと同じであることが大切で、ブームとなると骨の髄までしゃぶりつくしてしまうような時代だった。新しいものを皆で追いかけるのが最上の価値だったのである。今思えば狂っているとしか言いようがないくらい同調圧力がやばかった。

話を戻そう。バブル期に流行ったデザートで唯一、パンナ・コッタだけ無視されたかのように忘れられてはないだろうか? クレーム・ブリュレも、ティラミスもナタ・デ・ココなら、すぐに見つかるのに、パンナ・コッタだけは探さないと見つからない。いったいパンナ・コッタに何が起こったというのだろうか? と言うかパンナ・コッタってどんな味だったっけ?
***

といいつつも、こんな記事を書いていて恐縮だが、わたしもバブル期はまだ子供だったので、あの時代の享楽を間接的に体験しているだけである。ナウでヤングでトレンディな時代は子供には遙かに遠いものだった。

役に立たない文章の書き方

文章というのは、好きな、もしくは読みやすい人の『文章構造』だけを真似すれば、ある程度読めるものが書けちゃうものである。もちろん文章丸々をパクるのは駄目だが、構造なら問題はない。流れと言ってもいい。世の中の大体の文章構造と言うのは
  1. 前置き(イントロダクション)
  2. 本論(自分が言いたいこと)
  3. 結論(終わりの言葉や理由のまとめ)
大体こんな感じである(起承転結の四段構成なんかもあるが、結局のところトピックの分け方の基準の違いであって、どこに力点を置くかの違いでしかない)。ただ個々で違うのは摑み(前置き)に割く分量だったり切り口や本論から結論までのたたみ方といったところだ。そこら辺の巧みさが個性となる。受け入れられやすい傾向がある。


大切なのは『書き過ぎない』ということだ。文章が下手とか読みづらいというのは、大半が『何かが過剰』で『何かが不足している』ということがほとんどで、要はバランスを欠いているということだ。長ったらしい文章は、『ダルい』とか『読むのが面倒くさい』といった感情を呼び寄せやすいし、短ければ短いほど『物足りない』という感情を呼び寄せる。

ただし、日本語の文章構造、漢字と仮名の組み合わせの表記といった点で多言語より情報量が多く表記できヴィジュアル寄りなので、文章は短いほうがスマートである。アルファベットなどの表音文字は意味より音を表記する面が強いので、話し言葉の再現を再現するという側面もあり、一文が長くてもそこまで気にならない。

文章で大切なことは、【主語(誰が)+述語(何をした)】がちゃんとつながっていること。そして、常用外の難しい言葉や漢字は特別な理由がない限り使わないこと。ルビを振っても辞書を引かない限り理解できないような言葉の大半はアウトである(読者層をコントロールしたい場合はまた別)

それと説明しすぎない。『読者はバカだろうから説明してやろう』と思うような言葉は、説明しなくていいし、『逆にこれくらいはだれでも知っている』と思う言葉は説明しておいて損はない。読者は思っているほどバカではないが、書く側が当たり前と思っている事ほどみんな知らないのが普通である。


上手い下手は別として、こういったことに気をつければ、そこそこ読める文章と言うのは書ける。世の中には芸術やアバンギャルドな表現をするために逸脱しようとする輩もいるが、大半は失敗作である。スタンダードに見えてちょっと違う。それこそが味のある文章だと自分は思っている。

長いと思ったら、本意が失われない限界までおもいっきり削れ、短かったら、意味がちゃんと通るように肉付けしろ。それだけで文章というのは読みやすくなる。ちょっとした違いが後々効いてくる。

今年の夏コミの話

どうも、最近全然記事を書いていないしーざーです。

ここ最近、環境が少し変わったり、色々とプライベートでバタバタしていたりとあったのでそろそろコミケの準備をしなきゃな……と、コミケも一ヶ月を切ったので、ちょっとまた宣伝を。

MOZA MOZAは、金曜日 東地区“ヘ”ブロック-30b に配置されました。場所は画像のとおりです。



うちのサークルは、コミケ合わせに新刊を作るシステムではないので、五月につくったThe Smoke: Book 2コミケ初売りとして持っていきます。それ以外にも既刊を持っていきますので是非、サークルスペースにお立ち寄りを。スペースに立ち寄って挨拶だけというのも大歓迎です。

MORE INFOMATION ABOUT
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Twitter: https://twitter.com/Ronald_SHIZAWA

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https://webcatalog-free.circle.ms/Circle/11901084

お品書きは以下の画像の通り。ぜひ時間のある方、一日目にコミケに来られる方はMOZA MOZAにお立ち寄り下さい。



香辛料と食べ物の好みの話

最近、何故か香辛料の強い料理を避けるようになった。もちろん人付き合いや何やらで、そういった料理をいただくときは食べるんだけど、自分から好き好んで食べたいとは思わないのだ。特に唐辛子系がダメである。なんか辛いモノを食べると調子が悪くなる。少量なら大丈夫だけど。

昔、といっても五年、十年くらい前だがその頃はどちらかと言うと刺激物系のパンチがある料理は好きだった、でも近年どうもそういった類の料理に好き好んで手を付けなくなった。カレーでさえ、お子ちゃま向けの甘口なら食べてやるかレベルである。

なぜだかわからないが、強い香辛料は匂いをかぐだけで満足してしまう。外国人相手の仕事柄、香辛料の匂いにうんざりしているのかもしれない。彼らが学校に持ってくる食事もスパイシーだし、そういったものを食べるお国柄の人の体臭もすごくスパイシーでなのだ。

そういえば、昔に比べ濃い味のものも食べなくなった。脂の多い肉もそれほど食べたくない。それに量も食えなくなった。とはいっても、一、二ヶ月に一回ぐらいは容赦の無い、ジューシーな肉やボリューミーなアメリカンっぽい食べ物も食べたくなる。でも、野菜を定量取れないと精神的、肉体的になんか苦しい。そういえば中華料理もご無沙汰だ。自分自身あまり外食をしないというのもあるけれど。

この時期になると、もっぱら冷たいざるそばが食べたくなる。豪盛に天ざるにして、大根おろしを入れて、天ぷらと一緒に味わうのもいい。あとは御飯もの。丼でもお寿司でも、そういったものがいい。あとは、野菜中心の料理とかがあるとなんだか落ち着く気がする。

自分で書いていてなんだが、それは単純に歳を取ったせいで、消化能力が落ちて体がハイカロリーなものを求めないだけじゃねえか。とはいっても、なんか食べ物の好みが変わってくると自分の生命力が落ちている気がしてなんだか怖くなる。いやですねえ、まったく。

運命のめぐり合わせ

今年の七月十二日でちょうど日本語教師になって四年目に突入した。昔の自分は絶対に今こんな仕事をしているとは思っていないだろう。本当に運命の巡り合わせである。とはいっても労働環境にはあまり恵まれたとはいえないんだけど(ここらへんはけっこうデリケートな問題なので……またの機会があれば)。

最近になって他の学校さんと掛け持ちする機会を頂いたので、なんやかんやで、うまくやってけるタイプの仕事だったんだろう。自分よりうまくやっている人が去り、一見、向いてなさそうな人がサバイヴしてタフになって生き残ったり人生は何が起こるかわからない。

仕事の話は、自分一人だけの問題じゃないし、プライベートにも関わってくるので言いたいことがないわけじゃないけど、自分はあまり表立って言わないことにしているので、これ以上言わないけど(笑えるネタからブラックなネタまで一通り揃ってはいるんだけど、人前では言わないことにしているので申し訳ない)。

まあ、でも自分個人としては海外に一度も行ったことはないのに、こんな仕事をしているのは皮肉ではある。自分の学生時代の就職活動はリーマン・ショック後ということもあり、私含め、みんな就職が決まらなくて、同期との卒業旅行はパー。俺の周りで海外に卒業旅行へいてた奴らはみんな要領が良く、さっさと仕事を見つけたような奴らばかりである。

多分、俺が海外に行けるとしたら、奇跡的に結婚とかをして、新婚旅行だかハネムーンだかで行けるかもしれないとは思うが、今のところそんな予定も相手も一切ない。

大学時代は自分のやりたいことをそれなりにやれたし、後悔とかは殆ど無い。この仕事につけなのも、大学で運よく副専攻を収めることが出来たから、それが結果的に就職に失敗してプーになっていた自分を、首の皮一枚で救ってくれたのだから学問様々といったところではある。(ただ、未だに薄給でピーピー言っているのには変わらないが)。世の中のメインルート外れようが、人生案外なるようになるモンである。うまく行かなかったり、死にたくなるようなこともたくさんあるけど、乗り切っちゃえば、次の波が来るまではどうにかなる。

ただ、なんでもそうだが人生の転機みたいなものは、交通事故に合うよりも低い確率で、本当に運命のめぐり合わせなんじゃないかと思わせるようなことばっかりだ。人生何が起こるかわからない。へんに肩肘張らずに、あるがままを楽しむくらいの余裕を持っていたほうがいいのかもしれない。

本当に人生何が起こるかわからない。